二章 分相応の実力 2

 
 遅れて到着したダンとナフューを待っていたのは、案の定ウララによる怒声であった。
 顧問は老齢のためか先に就寝していたが、ウイッシュとモーリアの視線は鋭く冷めていた。それでも小言はウララに任せるのか罵倒などは少々程度という状況下で、ダンらは不運な事情を身振り手振りで説明し、情に訴えつつ怒りを沈めることに専念したが、より一層呆れられて、二人対三人の溝は深まっていく。
 しかし大会ともなれば話は別のようで。
 試合がはじまれば、ダンやナフューが戦っていようがちゃんと仲間としての声援がやってくる。
 それに応えるべきだとダン自身も思っていた。
 常識的見地からすれば妥当な判断だ。
 なのにダンの動きは精彩を欠いた。
 心の奥底にある『掟』がダンの剣先を鈍らせたのだ。
 それでもなんとか負けはせずに引き分け続け、結局セサミ上級校組は一日目の団体五剣士戦を毎試合四勝一分けの成績で勝ち残り、二日目の準々決勝を迎えることになる。
 
  ◇◇◇
 
 準々決勝の組み合わせ抽選へ出向いた我らが代表ウララを控え室で待つなか、ダンは鼻歌まじりに壁際へもたれていた。
 とりあえず、一安心だな。
 ナフューの提案は二日目まで是が非でも残ること。
 二日目まで残った組は『八傑集団』とも呼ばれ、各組に準々決勝までの賞金が出る。その額、五名で割ったとしてもダンとナフューが失った金額を軽く上回るものだった。
 これで帰りは大丈夫。
 手元に来た賞金を前に、二人は固い握手を交わしたものだった。
 もう思い悩むこともないのさぁ。
 金はある。
 守護警士資格試験への推薦を得るにも、八傑集団入りしたとなれば充分な成績だ。
 すでにダンの目的は達せられた。だからか意気揚々で、時折金額を思い出してはにやけたりしていたのだが、控え室に入ってきた厳しい表情のウララを見て、ダンは即鼻歌をやめた。
 重苦しい空気が漂い出すなか、ウララは進行表を机に広げ、
「準々決勝の相手は、レイヨリオ上級校。しかも第一試合よ」
 ウイッシュとモーリアが息をのみ、ナフューが軽く口笛を吹く。しかしダンは小首を傾げるのみだ。それを見てか、ウララがため息混じりに付け足した。
「レイヨリオには、私の従姉妹がおります。名をジェッカー・ローズン・ユトリア。彼女は並大抵の相手ではありません。もちろんレイヨリオの五剣士もまた優勝候補です」
「つまり、ヤバイ相手と」
 ダンの問いに、ウララは睨んだだけで話を続けた。
「勝ち続ければいずれ当たる相手です。こうも早いのは不運でしたが。我々は一歩も退くわけにはいかないのです」
 ぼくは退きたいですけど。
 口にせずダンは視線を走らせた。
 巨漢のウイッシュと、細身のモーリア。彼らはしっかりとうなずき、やる気に満ちているように見える。そして今や盟友ともなったナフューは、肩をすくめただけだ。こちらはやる気のやの字も感じられない。
 こりゃ、ダメかな。
 自分のことを棚に上げて悲観していると、ウララのほうも士気の低さを感じ取ったのか小さく首を左右に振り、
「敵、レイヨリオは対戦相手が我々と決まってから、先鋒を変更してきました。こちらもそれ相応の手を打たねばなりません」
 相応の? つーか先鋒はぼくだったはずだが。
 今までずっと先鋒で引き分け続けてきた。勝たなかったのは『掟』によるものだが、先鋒ならば迷惑も掛けないだろうと判断したからだ。現に、ダン以外は連勝で一日目を終えている。
 まぁどこになろうが、やることは一緒だけど。
 我関せず、と思うも、ウララの悲壮感漂う横顔を見ていると、だんだん別の思いが湧き上がってくる。
 どうせ嫌われてるのに。
 自分に呆れながらも、ダンは口を挟んだ。
「あちらの先鋒、どちらさんで?」
「ユトリアです。彼女は五人抜きを宣言しました」
 五人抜き? あぁ変わったんだな。
 大会初日は勝ち星戦であったが、準々決勝の二日目からは勝ち抜き戦へと変わっている。そのため先鋒一人で五人抜きという無謀なこともできるのだ。
 なめられているのか、それとも向こうのやる気が異常なのか。
 すべてはウララに対する当てつけなのかもしれない。
 どうする、ダン。
 決めかねるダンをよそに、ウララが判断を下す。
「彼女が先鋒ならば、私が当たらねばなりません。勝つにしろ引き分けるにしろ、ユトリアは私が必ず潰します。ですから、先鋒は私が。次鋒はウイッシュ」
「おう」
 野太くも力強い答えにウララは満足げにうなずき、
「中堅はモーリア、あなたに任せませす」
「異論はない」
 囁くように、それでいて真摯な眼差しで答えるモーリアへ短く謝辞を述べたウララは、次にナフューを見て副将へ就くよう要請した。
「副将ねぇ。柄じゃないなぁ」
「それでも受けてもらいます。最後の大将戦では、勝たなくとも引き分けてもらえればよいのです」
「ふーん。ま、それならばやりましょうか」
「頼みましたよ。そして」
 ウララの睨みが来た。
「あなたは大将をやってもらいます」
 なるほど、勝ち星争いで勝つ気か。
 ウララが思い描く戦績は三勝二敗二分けだ。先鋒は引き分け、次鋒と中堅が一勝一敗狙いで、副将が一勝一分けという計算だ。先鋒以外は二戦し、大将にまでは試合を回させない。それだけダンへの信頼度はからっきしなのだろう。
 素早く結果を弾き、ダンは苦笑いを浮かべて確認した。
「先行逃げ切り、と言ったところで?」
「そうです。これで勝ちに行きます」
 揺るぎない瞳に、ダンは逸らすかのように瞼を閉じた。
 なんだか。ちょっとな。……やっぱダメだろ。
 どうするかずっと決めかねていたが、ようやく決心した。
 我は獣へ至る、だよな。師匠、今回も破りそうです。
 断りつつダンが目を見開くと同時に、最後の機会は訪れた。
「異論、ありませんか」
 まわりを見渡すウララへ、ダンはおもむろに手を挙げた。
「なにか」
 鋭い眼差しと二つの冷めた視線、そして意味ありげに微笑むナフュー。彼らに対し、にやけた笑みを浮かべたダンは異議を唱えた。
「これはぼくの我が侭なのですが、先鋒をやらせていただきたい」
 じっくり睨まれた一拍後、ウララは押し殺した声で確認してきた。
「……本気ですか」
「ええ。それにぼくは大将の器じゃない」
「器など。これは勝つか負けるかなのです。我が侭は言わないでください」
 だよなぁ。その通り。……しかし、なんというか。
 却下されるのはわかっていたが、実際されてみると心に来るものがある。
 どんどん嫌われていく。ぼくはなぁにしてんだろ。
 笑いたくなる衝動を抑え、ダンは次なる手を打った。
「勝ち負け。ならちゃんとした戦略を立てるのも代表の責任では」
「私の見立てが、間違っていると?」
「べつにそこまでは。ただ勝つ気でいるのなら、いきなり大将同士が争うのもどうかと思うわけです。おわかりですか?」
 少々の嫌みが、ウララの頬を朱に染めさせた。
「私は堂々と!」
「よく考えてください」
 吠えるウララへ冷静な声で呼びかけ、ダンは淡々と言い続けた。
「突進してきているのは向こうです。考え無しにですよ。それにわざわざ乗っかるのは、ちょっとねぇ。おかしいと思いませんか」
 暗に同類であることをほのめかしているわけだが、本心からではなかった。
 でもそういう人だと思われてんだろうなぁ。
 実際、ウイッシュとモーリアの視線は鋭い。今にも吠え掛からんばかりだが、すべてウララに任せている節がある。彼らはウララ信者なのだろう。だからやりやすい面もあるが、この状況下では鬱陶しくて仕方ない。
 ま、今は無視だ、無視。本命が落ちればどうでもいい。
 意を決し、ダンは畳みかけた。
「いずれあなたは王国の将となる人でしょう? 将ならばどうしますか。少しでも勝つ手を取るのが国のためでは?」
 唇を噛み、ウララは進行表へ目を移す。
 よしよし。これで決めてみますか。
「いいですか、我々は大将の駒です。戦略上、あなたの命令でどこへでも。ならば戦術を有利に運ぶために、戦略の段階で相手の力を削ぐのは上策でしょう? そう、あなたの命令で」
 そこまで言ってダンは押し黙った。
 いきなり顔を上げたウララがダンを睨んだのだ。今までにない鬼気迫る雰囲気をまとってだ。
 さすがジェッカー。
 英雄の子孫であり、将の器として宿命づけられた者だけはある。
 ぼくには無いものだな。
 気圧されるほどの高貴さと、剛毅な心が作り出す精神波動を感じつつ、ダンはウララの言葉を待った。
 誰しもが口を閉ざし静寂が辺りを包むなか、闘技場から選手紹介の声が聞こえだし、名が呼ばれるごとに客の歓声が沸き起こる。その声を背に、ウララは怒りを抑えた口調で話しはじめた。
「私はあなたを信用していません。理由は今までの試合です。あなたは真剣に戦っていない。そんなあなたがユトリアと戦いたいという。その本心を聞かせて欲しい」
 本心か……君のため、なんて言えないか。
 陳腐すぎであり、遅すぎであった。
 ならもう一つの本心で行きますか。
「捨て石ですよ。でも戦ってみたいのです。本気でね」
「本気、ようやく出すと?」
「ええ、出します」
 即答を受け、ウララは眼を細めて矢継ぎ早に変更を口にする。
「中堅ウイッシュ、副将モーリア、大将ナフュー。私は次鋒を務めます」
 最後に一呼吸置き、
「ジェスラ・ババンギ・ダン、これであなたの望み通り。先鋒として、それ相応の働きをしてもらいます」
「やらせていただきましょう」
 にこやかに答えたが、笑顔の人物はダン以外に誰もいなかった。
 
  ◇◇◇
 
「あんたらしくない、気がするね」
 三人が先に控え室を出たあと、続こうとしたところへナフューが小さく囁いた。
「そうかい。結構、ぼくらしいと思うけど」
 振り返る先に、笑顔のナフューはいなかった。
 反対なのか。
 真意を掴みきれないなか、ナフューの言い分は続いた。
「あんな強引なの、お似合いじゃない」
「まぁね。あれはとある友人を真似たのさ」
 脳裏を過ぎる二重顎に自然と顔がほころんでいると、ナフューはため息混じりに核心を突いてきた。
「ダン、ならば『掟』はどうするんだ」
 それか。
 再度ナフューが提案してきたとき、ダンは戦いへの姿勢として、師匠から課せられた掟を明かしていた。
「今回も破ることになる、かもね」
「本気か」
「だね」
 揺るがない答えに、ナフューは肩をすくめてようやく笑った。
「決意あるのならそれでいいさ。掟、破ればいい」
「そりゃどうも」
「しかし変な師匠だね。弟子に勝たせないってのは」
「あぁ変な人だったよ」
 今では遠い記憶の彼方であり、顔もおぼろげでわからない。
 ただ大きな人だった、という輪郭だけしか思い出せない。
「昔の約束を律儀に守るのもどうかと思うけど。とにかく、ようやく本気が見られるわけだ」
「ようやく、じゃないでしょうが」
「ようやくだよ。コオルタのときなんて、まったく不抜けてたろ」
「がんばってました」
「よく言うねぇ」
「その言葉、そっくり君に返すよ」
「俺? 俺はいつも必死だぜ、苦労してんだから」
 ほんとよく言うね、ナフュー。
 観戦できた試合を思い返すと、ウララを除いた全五剣士のなかで一番余裕ある戦いをしていたのはナフューだけだ。ギリギリで勝っている節はあるものの、それはすべて余裕がなせる技とも言えた。
 変な奴だよ、君は。
 自分のことを何度も棚に上げたダンは、腰に差した木剣の柄へ左手を添えて控え室を出て行く。
「大舞台だな」
 あとに続くナフューが肩を組んでくる。
 それを鬱陶しげに見るもダンは振り払わずに答えた。
「緊張させんなよ」
「本当のことだろ。ついでに、師匠の定めた掟をウララのために破るのもな」
「な、なに言って。ぼくはなにもそんな気ないから」
「ばれてんだよ。俺はナフューだぜ。あきらめな」
 女好きナフュー、その異名通りに数々の浮き名を流した男だ。
 あきらめたほうがいいか。
 さわやかな潔さを実感しつつも、ダンは釘を刺す。
「黙ってろよ」
「もちろん黙っているさ。無粋なことはしねぇよ」
「信じるからな」
「どぞどぞ」
 間近にある笑顔が無性に腹立たしい。それでも振り払うことができずに、ダンは大舞台への扉を開いた。
 
  ◇◇◇
 
 真っ赤な上級生服を着込んだ女性が、歓声に答えるべく手を振る。
 それだけで観客は総立ちだ。
「全員、敵か」
 つぶやきながらダンは円形の舞台へ上がった。
 東西に別れた位置から、中央へ進んでいく間に歓声は一際高くなっていく。
 その過程で、ダンはようやく対戦相手であるユトリアを確認した。
 なるほど……全員敵になるのもわかるってもんだ。
 やり難さを感じつつ思わず東陣営にいるウララを見てしまうが、眼光鋭く睨まれあわてて向き直る。しかし前を向いても同じ顔が微笑みながら近づいてくるのだ。
 これがユトリア。互いを憎しみ合う理由、その一つか。
 うり二つだ。顔も髪も身長すら同じ。服装を同じにすれば、一見しただけでは判断がつかなくなるほどだ。となれば、直系としての誇りを持つユトリアが傍流のウララに対し、単なる近親憎悪以上のなにかを抱くとしても不思議ではないだろう。
 やるしかないが。こりゃ大変だねぇ。
 ウララが引き分けてでも潰すと言った相手だ。
 外見と同じように剣の腕も匹敵する、あるいはウララ以上なのかもしれない。
 コオルタの噂なんて、今となっては眉唾だしなぁ。
 五剣士となるために戦った神速のコオルタを思い返す。噂ではウララ以上とも言われていたコオルタであったが、実際に戦った感触と先ほど感じたウララの気迫を比べるなら、圧倒的にウララのほうが上だと思える。
 ぼくはあんなのと戦うのか。
 思い出すだけで気分が滅入る。
 しかし目の前に来た相手はウララと同格かそれ以上。顔の筋肉が引きつってしまうのも仕方がない。
「緊張しているのか?」
「な、慣れていないもので」
 どこかで聞いた会話に眉をひそめるも、差し出された木剣を見て、あわてて抜刀し互いに木剣の鍔を合わせる。同時に今まで溢れかえっていた歓声が一斉にかき消え、あたりを静寂が包んだ。
 そこへ、ユトリアが皮肉混じりの笑みを浮かべ、
「たしかに慣れていないな。ウララも酷いことをすると思わないか」
「いや、まぁそのぉ、ぼくからやりたいと言いましたので」
「なるほど。お前もウララ信者というわけか」
「そ、そこまでは」
 否定してみるも、本心からの行動とウイッシュやモーリアが取る反応は結構似通っているように思えた。
 ダメだな、ぼくも。
 小さくため息を吐き、ダンは本心を振り払うかのようにハッキリと口にした。
「直訴したんですよ。あなたと戦いたいと」
「無謀だな」
「ええ、嫌いじゃないんです」
 緊張が徐々に解けて笑みを浮かべるダンに、ユトリアは青い瞳をゆっくり細めていくなか、横合いから声が掛かった。
「そろそろおしゃべりは良いかしら」
「いいわよ」
「ぼくもです」
 ちらり審判を見て答えたダンは、しばらく固まった。
「なにか?」
 小首を傾げると共に長い黒髪が揺れ、額当てに埋め込まれた赤い真石が淡い陽光を反射する。
 それって。
 服も青い。どう見ても守護警士だ。今までは白い服装の中年審判が多かったのに、今日は行きなり女性であり守護警士と来た。しかもどこかで見たことがある顔だ。
 どこか……って。
「あ」
「あぁ」
 互いに気付いたのか、間抜けな声が上がる。
「知り合いか?」
 ユトリアの問いかけに、守護警士ラカン・ジョワット・メーベルは軽く咳払いし、
「資料で見ただけです。ご心配なく。それに私は戦いに私情を挟まない主義でして。ま、そのあたりはおわかりでしたよね、ジェッカー・ローズン・ユトリアさん」
「嫌というほどにな」
 横目で睨むユトリアにほくそ笑むメーベル。そんな姿を見たらつい口にしたくなるものだ。
「あの、お知り合いで?」
「ちょっとお手合わせして、跳ねっ返りをしつけたことがあるだけです。ご心配なく」
 淡々と告げる内容を理解する間に、ユトリアの舌打ちが聞こえてくる。
 凄腕か。……ナフュー、君の推測は当たったよ。
 苦笑していると、メーベルが審判としての仕事をはじめていく。
「いいかしら。急所への攻撃をした場合、すぐさま失格。勝負が決まったら即止めに入ります。覚えておいて」
 対戦相手同士、互いにうなずき合い、次第に鍔迫り合いが激しくなる。
「試合終了は目安となるかがり火が消えるまで、いいわね」
「ええ、ありすぎだけど」
「粘らしてもらいますよ」
「分相応ってのを教えてやる」
 ささやかな反撃も簡単にいなされ、ユトリアは一気に集中するかの如く青い瞳を見開き、ダンを睨んでくる。
 すげぇ圧迫感だね。
 あふれ出る精神波動に気圧されそうになるなか、試合開始の号令が轟く。
「はじめ!」
 すでに力が入っていた鍔迫り合いへ、ユトリアが体重を掛けてくる。押し負けないようやり返すが、ユトリアから放たれる気迫がダンの判断を迷わせる。
 これが英雄ジェッカーの……。
 血のなせる技。
 受け継がれる精神の力であり、輝き。
 今回の試合は剣術であるため真術は一切使えない。そもそも真石を持ち込むこと自体が不可能だからこそ術は使えないのだ。しかし一部の人間には、真術発動の引き金となる精神波動の強い者がいる。
 それは時として、対峙する相手に多大な影響を及ぼす。
 今がまさにその時だ。
 膨れあがる気迫に押されている感覚に陥り、実際の腕力勝負の判断がつかなくなる。
 くそ、離れるべきだ。
 わかっていても引き際が掴めない。
 なら、やり合うしか。
 意を決し、ダンは力を込めて木剣を押し上げていく。
 同時に相手の力も強まり、互いの勢いで木剣が跳ね上がる。
 近距離で上段構えとなった瞬間、あたりに木剣の鈍い打撃音が響き渡った。
 打ち合うこと数合。
 すべてを受け返していくうちに距離が開いていき、ほぼ十合を超えたあたりで、互いに見合わせたかのように後方へ飛び退いた。
 やべぇやべぇ。読み間違えたが、助かったぁ。
 退く瞬間にでも打ち込まれたら交わせたかどうか自信はなかった。だが向こうも同じ読み間違いを犯した。もしあのときどちらかが踏み込んでいれば、試合は終わっていたかもしれない。
 さすがジェッカー。今までと次元が違う。
 相手の力量に感嘆しつつ木剣を脇に構え、じわじわと距離を詰めていく。
 ユトリアは上段に構え、しばし睨んでいたがゆっくり前へ進んでくる。
 一向にぶれないな。これが本物か。
 幾多の相手が隙を見せたが、ユトリアは違う。
 未だ衰えない気迫をまとって攻めてくる。
 次が勝負か。
 ダンは構えを正眼に変え、相手の出方を伺う。
 それでもユトリアの動きに変化は見えない。
 やるしか、ないな。
 精神波動が邪魔するも、相手の剣筋は見えている。
 勝機はある。五感を研ぎ澄ませ、相手の鼓動を感じろ、さすれば我は獣へ至る。心を、決めろ。
 己に言い聞かせ、緊張と鼓動が最高潮に達した、その瞬間だった。
『逆らうな』
 突然耳鳴りの如く聞こえた声にダンは目を見張り、進める足先が鈍った。
 それが隙だった。
 雷神と称えられた英雄ジェッカーを彷彿させる速さでユトリアが間合いを詰め、一撃を振り下ろしてくる。
 ダンは受け止めることもできず、かろうじて右へ倒れるように避けるも、迅速な二撃目が跳ね上がってくる。
 冗談じゃない。
 微かに木剣を当てて軌道を逸らし、ダンは倒れる勢いのまま横っ飛びして間合いを開けた。即座に体制を整え正眼に構えるも追撃はなく、ダンは荒い呼吸を整えつつユトリアを睨む。
 ユトリアは余裕の笑みを浮かべ、木剣をゆっくり上段へ構えていく。
 こりゃ、やばいな。
 聞こえてしまった師匠の声が切っ掛けか、徐々にまわりの歓声が耳へ入ってくる。試合開始から静寂は打ち破られていたのだろうが、極度の集中が客の声や陣営からの声援すら聞こえなくしていたのだ。
 それが今ではジェッカーを称える歌すら聞こえてくる。
 集中が乱れたなぁ。でも一番問題なのは師匠だ。まだぼくは……。
 歯を食いしばるなか、またも声が聞こえてくる。
『本気を出すな』
 実際に聞こえているわけではないはずなのに、深く淀んだ響きを持つ声は、どこかで聞いた覚えがあった。しかし思い出そうにもはっきりとは浮かばず、なにもかもが靄に掛かったかのようにおぼろげだ。
 そんなにぼくは、勝っちゃいけないのですか。
 問いかけるも答えはない。
 妄想だと決めつけ、頭振って払おうとするも声は『勝つな』と何度も木霊はじめる。
「どうした、お前はそこまでか」
 試合はじまってから沈黙し続けていたユトリアが揺さぶりを掛けてくる。それだけ流れが彼女の物となっている証拠だ。
 勢いにのってるね。となると次が最後。
 わかっていても言い返す余裕がダンにはない。
「できる奴かと思ったが。どうやら分相応の実力らしい」
 吐き捨てたユトリアが、間合いを気にすることもなく突き進んでくる。
 真っ向勝負か。
 ダンは正眼に構えたまま動かず、相手の出方を見極める選択を取った。
 右か左。それとも正面?
 迷うなか、ユトリアの精神波動が膨れあがると同時に飛びかかってきた。
 歯ぎしりし、動きを追う。
 猛然と振り下ろされる剣筋は、正面。
 なおも聞こえる『勝つな』の声を聞きながら、ダンの意志は固まった。
 我は獣へ至る! ぼくは勝つ!
 血が沸き立ち、筋肉が躍動し、ダンの身体が一気に右へぶれた。
 空振りするユトリアの一撃。
 目を見開く彼女を視野に入れつつ、ダンは払うかのように木剣を相手の脇腹へ叩きつける、まさにそのとき。
 身体が硬直した。
 何者かが身体を押さえたかのような、不自然な硬直だ。
 ありえない。あっていいはずがない。
「な、なぜ」
 思わず口にした直後、ユトリアの切り返した木剣がダンの左腕と脇腹にめり込み、なぎ払っていく。
 自由を奪われたのは、ほんの一瞬だった。
 だがユトリアはわずかな隙を見逃すような剣士ではない。
 見事な一撃だった。
 勢いを殺そうと自ら飛び退くも、衝撃は深く、左手の握力が戻らない。
 ダンは右手一本で木剣を構えたが、勝負はついたも同然だ。
「そこまで!」
 主審メーベルの制止に、歓声が引きはじめる。
 そしてあたりが静寂に包まれ出したころ、メーベルが西陣営へ右手を挙げ判定を下す。
「勝負あり。勝者、ジェッカー・ローズン・ユトリア。レイヨリオ校、一勝」
 負けたか。
 敗北には慣れているのに、今去来している焦燥感と虚脱感はダンにとって新鮮すぎた。だからか、歓声が再度上がっていることに気付かぬまま軽く礼し、うずく左腕を押さえて陣営に戻ろうとすると、
「お前は最低だ」
 背後からの罵倒に、ダンは振り返ることなく微笑んで円形の闘技場を進んでいく。
 しかし前方から、次鋒のウララが舞台へ上がってくる。
 なにか言うべきだよなぁ。
 思うも、口を開く気力が湧いてこない。
 そんなダンに構うことなくウララは歩を進め、すれ違いざまに小さく囁いてきた。
「最低だ」
 たしかに。
 あれだけ言ってこのざまだ。
 しかも勝てる機会がありながら、打ち込まなかった。掟があろうと、知らない者が見れば勝ちを譲ったとしか見えないだろう。相手にも味方にも、最低の行為となった。
 終わったね、今度こそ。
 こみ上げる衝動を抑え、ダンは苦笑いのまま闘技場を下り、味方の陣営に戻ることなく表舞台をあとにする。
 ただ、心の奥底に灯った思いを携えて。
 ぼくは……破れないのか、掟を。
 聞こえてくる歓声を背に、ダンは一人歯を食いしばり、暗い通路を去っていった。
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