二章 滅殺すべし 2

 
 バイトは滅殺業の見習い。
 滅殺は政府お抱えの職務、であっても社会の闇、さらに裏方を締めるため表沙汰にはできない。そのため表向きは警備業に属し、主に『四号業務』と呼ばれる身辺警護を担う会社として滅殺業者は存在している。ただし内容は悪魔絡み。当然秩序を乱す悪魔の滅殺がメインであるが、ときには警察が解決できない事件も任される。その場合、担当者はそれ相応の階級持ちでしか就けない。
 そして階級により担当する区域、領土も変わってくる。
 財前の会社である『マーダレイム・セキュリティ』通称エムエスが受け持つのは、主に南関東全般。財前自身が世界中から引く手あまたの滅殺エリートであるため、現在は財前の部下たちが職務を継続している。
 拠点は東京の新宿にあるが、支店は複数存在し、その一つである山手支店を任されているのが瀬能那由であり、柊勇也の見習い先でもあった。
 支店の所属メンバーは二十二名。
 だが人間は少ない。
 財前に憑いている『マーダレイム』の眷属や使い魔ばかり。悪魔憑きを人間と称さないなら、支店のメンバーはすべて人外となる。
 それらのなかで、駆け出しの勇也がやることと言えばほぼ雑用。
 現世に戻ってから約一ヶ月の間、バイト内容の主は電話番のみと言っても過言ではなかった。しかも学校がはじまってからは、放課後から夕食を挟んでの四時間程度の勤務。時給は千円。やることも少ないので楽と言えば楽だが、意味のない作業とも言えた。
 暇なときは探求すべき『SSA444便墜落事故』を漁ったが、訓練院にいた頃と変わりない、上澄みの情報しか入手できなかった。
 手詰まりであり、緩やかに流れていく学生生活。
 このままでは、という焦燥と。
 金が無くてはなにもはじまらないと判断する理性の板挟みに苦しんだ勇也は、本格的な滅殺業務着手を数日前から財前に具申し続けていた。なにしろ外回りは一桁違う。さらに滅殺する相手によっては政府から報奨金すら出るときがある。
 一気に金を稼げ、停滞する状況から脱出できるとあってはやらずにはいられなかった。
「お陰でようやく、チャンスが巡ってきたわけです」
「それはよろこばしいですな」
 後部座席から流れる夜景を見つつ、勇也はバックミラーに映る白髪交じりの紳士、坂上征郎へ話を振った。
「坂上さんは長いんですよね」
「長いとは、この仕事ですか」
「仕事もですけど、向こうとか」
「向こう? あぁたしかに長いですね。長すぎて忘れてしまうほどに」
 さすが眷属、ですか。
 見た目は初老と言っていい。
 柔和な顔で夜道を走るドライバー。しかし実体は、気が遠くなるほどの年月を生き抜いた向こう側の住人であり、今回のため本店から派遣されてきた男。
 階級無しであっても、財前さんの側近と言ってもいいんじゃないのか。そんな人……いや、そんな悪魔がパートナーにつく。心配されているのか?
「老いぼれがパートナーで、不安と言ったところですかな」
「いえ、その逆です。心強すぎます」
「それはまた光栄な。しかしご安心を。私は見届け人でありますから」
「手出しはしないと」
「致しません」
「ですよね。そうでないと、いけませんよね」
「ええ、勇也さまの晴れ舞台でありますし、私がしゃしゃり出ては本来のパートナーさまに失礼ですから」
「本来の?」
「勇也さまのパートナーはすでに決まっておられると、もっぱらの噂で」
 察しはつきますけど。
 答えを予想しつつ聞き返す。
「誰です?」
「瀬能那由さまです」
 ほぅらきたぁ。
「またまた、店長ですよ?」
「店長でも、那由さまはすでに滅殺業をこなしておられます。歳も同じで、パートナーにはちょうどよろしいかと存じますが」
「それは仕事上、ですよね」
「はい。仕事上のパートナーです。ただ、別の意味でのパートナーもよろしいのではないですか?」
「別の意味ねぇ」
「苦手とか?」
「いえ、そこまでは。って皆さん妙ですよ。いくらなんでも」
「申し訳ありません。どうも那由さまの境遇を思うと、つい」
 境遇ね……本当に悪魔ですか、あなた方は。
 情に脆すぎる。ついでにお節介だ。
 今までの価値観ではあり得ない。
 やはりなにかが違うんだろうな。
 訓練院での一年間でそれなりに理解はしたつもりであったが、改めて思い知らされる。
 彼らもまた同じ感覚を持つ者たちであることを。
 困ったもんだ。仕事前だというのに。
 自然と口元がほころぶも、淡々と話を戻す。
「まぁそのあたりはお察ししますが……仕事前にする話ではありませんね」
「おぉそうでしたな、重ね重ね申し訳ありません」
 運転中であっても礼儀正しく、坂上は頭を垂れてくる。
「いえいえ。気になさらず、普通に運転をお願いします」
「はっ、了解であります」
 細い眼をさらに細めて微笑む老紳士が軽く敬礼すると共に、信号が変わった。
 緩やかに夜景が止まっていく。
 勇也は仕事用にはめた腕時計へ視線を落とした。
 時刻はすでに八時を回っていた。
 那由の滅殺指令から三時間が経ったことになる。その間に支店で準備と夕食を済ませた。しかし気持ちのほうは未だ準備が整っていなかった。黒いスーツに身を包んだ時点で気を引き締めたつもりであったが、やはりはじめてであることが勇也を縛り、次第に呼吸が深くなっていく。
 もうそろそろ、だというのにな。
 再び流れはじめる景色は、徐々に住宅街へと変わっていく。
 目的の場所はベッドタウンの一角にある『フラワーコート寺井』という名のマンション。滅殺相手は野崎太一、成人男性であり普通の会社員。だが悪魔憑きであり、すでに三件の殺人を犯している。
 秩序を乱した、悪魔憑きか。
 人間の法で裁けても拘束が無理な以上、もう一つの法と力によって消滅させるのが、今という世界。
 悪魔が悪魔を滅する……理想的だね。
 窓ガラスにうっすらと反射する、緊張気味な顔を見て勇也は微笑んだ。
 やるしか、ないんだ。
 自らに言い聞かせ、小さくつぶやいた。
「滅殺すべし」
「……なにか?」
「いや、独り言です、独り言」
 照れ隠しに苦笑した勇也は、追求して来ない坂上へ聞き返した。
「それより、あと何分でしょうか」
「五分程度で到着します。準備のほどはいかがですか?」
「大丈夫です。少し緊張してますが」
「最初はそんなものです。ところで相手の情報は押さえておりますか?」
「もちろん。皆さんが俺用に残していたのさえ、知っていますよ」
 大した相手ではない。
 悪魔憑きであっても、支配階級ではない無頼の者。体力、筋力共に増加し、人肉に対し異常な食欲を持つと言えど、初心者用の相手と言えた。
「まぁ最初、ですからな。周りも気を使ったのでしょう。しかしこれはゲームです」
 たしかにゲームだ。
 代理戦争的ゲーム。
 強力な者ほど、人間に憑かなくては参加できない。そしてこの世で出た結果が、あちらの世界で多大な結果を生じさせる。秩序維持のもう一つの側面だ。
「立身出世のゲーム、ですか」
「はい。向こうが勇也さまの正体をお知りになったら、さぞ張り切ることでしょう」
「飾りでも?」
「ええ。手に入れたならば、一国を築けるわけですからな」
 一国ねぇ。
 憑いているラスティムゥアの階級は女王。上から数えて第二位であり、坂上の言うとおり一国を支配できる階級だ。しかしラスティムゥアは孤高の女。眷属も領土も、なにも持たない故に、女王だと周りから高く評価されても勇也には実感が無かった。
 面倒なだけさ、この称号は。
 訓練院での苦い記憶が過ぎるなか、勇也はため息混じりに答えた。
「野望持ちは困りますねぇ」
「野に下っている者は皆餓えておりますからね」
「坂上さんは無いと?」
 バックミラー越しに細い目が勇也を射抜く。
「ええ、ありません。主に対し忠誠を誓った身ですし、自分の分というものがあります」
「分ですか」
「私に支配するほどの力も、カリスマもありません。ご安心ください」
「別に心配などしてませが、一応安心しておきます」
「ありがとうございます」
 口元に笑みを湛えての謝辞と同時に、車が減速していく。
 時間だ。
 左斜め前に目標となる薄茶色のマンションが見える。あたりを伺うも人影は見えない。代わりに幾つかの家や、マンションに灯りが点っている。
 この状況からか。
 知らぬうちに眉をひそめた勇也に、坂上の声が掛かる。
「大丈夫です。すでに結界の準備は整っております」
「……まぁわかってますが、こちらの規模は実感してないので」
「うちの者はなかなかやります。例えここら一帯が爆破されても、気付く者はおりますまい」
「強力ですね」
「ええ、強力すぎますから、相手もすぐに気付きます」
「だから結界は接触直前なわけで」
「はい。勇也さまが相手の部屋前へ到着した時点で、掛かります」
「了解」
 答えた直後、ドアロックが解除される。
 では行きますか。
 深呼吸し、ドアノブへ手をかけると、
「それと最後に一つ」
「なんでしょう」
「悪魔との戦いにおいて、気をつけていただきたい点があります」
「相手の言い分を聞くな、ですか?」
「ええ、わかっておいででしょうが。念を押させていただきます」
「それだけ、やっかいだと」
「はい。特に勇也さまならば……おわかりですね?」
 充分に。
 訓練院で嫌というほど叩き込まれている。
 悪魔は心を覗くのだと。
 能力で覗く者もいれば、知略を尽くして心を暴く者もいる。そしてなぜか、彼らは必ずと言っていいほど相手の願望を的確に、見抜く。
 たしかにやっかいだ。なにしろ俺は。
「願望が強い、ところがですね」
「わかっていらっしゃるようで。ならばお気をつけください。一番そこが、勇也さまの弱点になります」
「了解、肝に銘じておきますよ」
 なるべくね。
 心の中で付け足した勇也は、不敵な笑みを浮かべてドアを押し開く。
「御武運を」
「どうも」
 軽く返した勇也は、はじめての狩りへ踏み出した。
 
  ◇◇◇
 
 ゲート式エントランスにオートロック。
 セキュリティは水準を保っていたが、無人故に勇也はなんなくすり抜けた。
 首に掛けている侵入用の魔石がすべての機器を狂わし、閉ざされた道を勇也のためだけに開けていく。
 さすがグレムリン製。こっちでも充分通用するな。
 対魔コーティングされていない限り、機械仕掛けはすべて無効となる。お陰でなんなく侵入した勇也はエレベーターで十五階に上がり、数分と掛からず標的の部屋前へ到達していた。
「行くぞ、ラスティムゥア」
 小さく呼びかけるが相手は答えない。
 未だ無言を通す相棒に眉をひそめるも、勇也は気を取り直してドアへ手を掛けた。
 電子錠とシリンダーキーに閉ざされているが、魔石と一瞬で張られた結界により無効となる。
 微かな解錠の音色と共に、勇也はゆっくりドアを開けた。
 月明かりによって暗い玄関が薄く浮かび上がる。広がる光景はどこにでもある間取りだ。フローリングの廊下に幾つかのドア、そして奥のリビングへ続くガラス張りドアから、部屋の光りが漏れている。
 標的はあそこか。
 定めながら吐く息が次第に冷たくなっていく。
 周りの気温も徐々に落ちていくのがわかる。
 気負いすぎてるぜ。
 無意識に力が溢れはじめるのを、なんとか押さえつつドアを閉める。
 では、失礼します。
 心の中で断りを入れ、土足のまま床を踏みしめる。
 だが二歩進んだ時点で、勇也は立ち止まった。
 灯りが消えたのだ。
 結界張ったからバレているんだろうが、来るのか?
 一瞬戸惑いを覚えるなか、荒い声が響いた。
「誰だ」
 誰だろうね。
 微笑んだ勇也は、再び歩きはじめる。
「動くな!」
 声はガラス張り越しに聞こえてくる。しかし姿は見えない。リビング奥から気配のみを察知しているのだろう。
 意外と手間取るかも。
 高まる緊張と、さらに下がっていく気温。
 もう押さえる必要はない、か。
 意識的に止めた力を解放し、ガラス張りのドア前に立った勇也はためらうことなく開け放った。
 ダイニングキッチンに整理されたテーブル、奥に白い絨毯が敷かれたリビングには小さなガラステーブルがあり、右側の壁には大きめの液晶テレビが掛けられている。よくある光景に、月明かりが差し込むベランダが見える、その手前に男の姿があった。
 野崎太一、間違いない。
 短めの黒い頭髪に精悍な顔立ち。写真で見た体育会系の印象そのままの男だ。
「お前は、滅殺の者か」
 そうだ、って言えないんだよなぁ。
 野崎は包丁を片手に、憤怒の形相で睨んでいる。そんな相手を見ていると、つい言い返したくなるのだが、答えを口にすることは出来ない。坂上から注意されたように、敵との応答は心を覗く足がかりになってしまう。
 けどこのままってのもな……試してみるのも一興か。
 からかいたくなる欲求と、ある種の期待が禁忌を破らせる。
「わかっているんだろう」
「やはりか……あいつの言ったとおりに」
 あいつってのは、憑いている奴のことか。
 見当付けながら、勇也はダイニングキッチンへと踏み込んでいく。
「う、動くな! 殺すぞ!」
 威嚇のため、手にした包丁を突き出してくる。しかし腰が退け、包丁を握る手も震えているせいで、恐怖よりも滑稽さが溢れていた。
 こんな奴が三件の殺人か。いくら悪魔が憑いているからって、人間でもなんとかなりそうだけど……いや、違うな。
 怯えた様子を見ていると、滅殺に怯えているだけとも取れる。本性を現したならば、やはり人間では相当な武装が必要になるだろう。
 大事にしないための、秩序維持か。
 改めて滅殺の意義を感じつつ、勇也は足を止めた。
「野崎太一、俺はあんたに用はない。取り憑いた者を出せ」
「用だと?」
 いぶかしむ野崎であったが、すぐに口元を歪ませた。
「そうか、お前が柊勇也だな」
 あっさり名前バレ。中身が変わったか……これならば。
 危機感を覚えるも、好奇心は止まらなかった。
「なぜ、知っている?」
「なぜだと? そう聞いてくること自体がナンセンス、お前だって知っているはずだ。だからこそ、俺はお前のことを知っている」
「どこまで、わかる?」
「なんだ? 知りたいのか」
 睨んだまま眉をひそめる相手に、勇也はさらに問いかけた。
「興味があるのは、あんたがどこまでわかるのか、だ」
「ほう、わかっていて踏み込むのか。バカだな、お前。しかし俺は答えることができる」
「なにをだ?」
「SSA444便だろ、橘?」
 そこまで。
 思わず目を見開く勇也に、してやったりと言わんばかりに野崎が微笑む、瞬間。
『後ろ』
 囁く声に思わず振り返る。
 敵がいた。
 包丁を小脇に抱え、もう一人の野崎太一が突進してくる。
「クソが!」
 吠えたと同時に、勇也は冷気を帯びた左手を包丁へと突き出す。
 手のひらに包丁の先端が突き刺さる、手前で突進する勢いは止まり、一気に凍結がはじまっていく。
 次!
 無力化を確認する前に身体が動く。
 気配だけだ。
 足音無く、ベランダ側の敵が眼前に迫る。
 右手を鞭のようにしならせ、相手の顔面目掛けて裏拳を放ち、見事に野崎の右顎を捉える。しかし勢いは殺せなかった。
 突き出す包丁が伸び、無防備な腹部を切り裂く、まさにそのとき。
『バカめ』
 聞こえる前に、背広の上から突如生えた白い手が包丁を握りしめる。刺さる寸前で止めた手はさらに力を発揮し、包丁を粉砕したあと瞬く間もなく敵を凍死させていた。
 さすがラスティ。
 宿る悪魔の威力に感嘆するなか、再び声が響いた。
『敵』
 短い指摘と共に背後から殺気を感じた勇也は、崩れ去る死体を飛び越え、はじめに仕掛けてきた敵と距離を取った。
 向こうが本体か。
 確信するのも、変容がはじまっていたからだ。
 包丁越しに両手を凍結された男は、両肩から褐色の腕を生やし、新たな手には湾曲した剣が召喚されようとしていた。
 やはり粘るね。
 間合いを計りつつ、次の一手を思案する。
 しかし。
 勇也の出番はここまでだった。
 突如として冷気を感じ、視界の隅に白いドレスが映る。
 慌てて隣を見ると、白銀の髪を持つ女、ラスティムゥアがいつの間にか佇んでいた。
 どうして。
 驚愕するのは勇也だけではなかった。
「お前は……この威圧、あり得ない! 奴は何も」
 奴?
 引っかかるなか、野崎の姿をした男は歓喜の雄叫びを上げ、
「だが、だが! これはチャーンス! やってやる!」
 嬉々として剣を構えて一歩を刻む、はずだった。
「え?」
 男は目を見開き、足下を見る。
 そんな男へ、微笑みを浮かべたラスティムゥアが聞き返した。
「なにを、やる?」
「そ、そんなバカな」
 終わったな。
 そう思わせるほど、冷気の侵食は早かった。
 足は凍結、敵が気付いたときにはもう下半身すべてが壊死していた。
「こんな、こんなの」
 男はすがるような目で勇也を見た。
「おい、橘! 知りたいんだろ、助けろ、教えてやる。俺は、俺は知っているんだ!」
 無駄さ。
 わかっていながらも、つい口走った。
「なにを?」
「444便だ、444便の生存者は!」
 生存って。
 耳を疑う言葉に、侵食を制止させようと振り向いた直後。 
「終わりだ」
 白い魔女の言葉通り、敵はすでに全身が凍結され、脆くなった身体は自重を支えることもできずに崩壊し、最後には粉末すら残さず消えていく。
 滅殺、完了か……。
 達成感はない。
 人を殺した、という嫌悪感も罪悪感もない。
 ただ激しい疑念だけが勇也を縛りつけ、強い思いの矛先は隣りに並び立つ白銀の女王へ向いた。
「ラスティ、どうしてだ」
 睨み見たとしても、彼女の顔から笑みが消えることはない。
「なにが、だ?」
「どうして現れた? どうしてすぐ殺した? 俺はまだ奴に用があった」
「そんなことか」
 高めの勇也と変わらない身長故か、彼女はじっと目を見たまま近づいてくる。
「勇也を害する者は、妾を害する。勇也の敵は、妾の敵。勇也、そちは妾と一生を共にする者、だから助け、だから滅した。それだけだ」
「日頃無視する癖に、勝手だな」
 赤い唇が歪み、楽しそうに微笑んだラスティムゥアは、白い手を勇也の頬に添えて撫でていく。
 また無視か。
 慣れきっているからか、勇也は切り替えて核心へ踏み込む。
「ラスティ、聞きたいことがある」
「なんだ」
「あの飛行機事故、なにを知っている?」
 撫でる手が止まり、もう片方の手が空いた頬へ添えられる。
「やはり勇也はおもしろい」
「答えろ、ラスティ」
「あれはまやかしだ。勇也の願望に過ぎない」
 生存者のことか。
 思わず消滅した敵の跡へ目がいくと、軽やかな笑い声が起こり、
「しかし揺れる勇也を見るのもまた、一興だ」
「ラスティ、お前は」
 語気を強めた勇也に白い顔が近づき、唇が唇を塞ぐ。
 薄く青い瞳が閉じられ、冷たい吐息と共に彼女の舌が割り込んでくる。
 ラスティ!
 噛みきりたい怒りが、伝わる快感に崩されていき、なすがままに流される。
 たっぷり味わい、微かに頬を染めたラスティが離れ、姿形がぼやけていく最中。
「まだまだ勇也は半人前。妾のために精進するのだな」
 氷の女王と呼ばれた魔物は激励の言葉と共に微笑み、姿を消していく。
 お前のために、か。
 残された勇也は暗がりのなかで小さく、舌打ちした。
 
  ◇◇◇
 
 結界は、勇也が一階へ降り立ったときにようやく消滅した。これで部屋に侵入した痕跡や、部屋で行われた行為も、すべてが消去される。残されるのは、誰にも知られることなく、滅殺対象者がこの世から消えたという事実のみ。
 これが滅殺。
 結界が消えたと同時に張り詰めた感覚が消え、言いようのない気怠さが身を包みはじめていた。
「意外と、来るな」
 小さくつぶやきながらエントランスを過ぎ去り、自動ドア前で肩を落としたまま、足下を眺めていたとき。
「ごくろうさまです、勇也さん」
 あり得ない声に顔を上げると、黒いスーツ姿の麗人が胸元で小さく手を振っていた。
 なんで店長が?
 小首を傾げるも、勇也はゲートを通り抜けて那由へ近づく。
「どうしました店長? なにか問題でも」
「いえ、ちょっと心配になったものですから。来ちゃいました」
 来ちゃいって。
 苦笑を浮かべてあたりを見ると、黒塗りの高級車が二台に増えていた。
 タイミングがいいな。跡をつけていたと見るべきか。
 呆れつつ、勇也は肩をすくめた。
「そんなに俺って信用ありませんか」
「違いますよぉ」
 頬を膨らませて仁王立ちすると、
「私も滅殺の者です。滅殺がどれほど負担となるかぐらい、充分わかっております。それに勇也さんは……」
 言い淀んだ那由はしばし目を伏せてから聞いてきた。
「滅殺は如何でしたか?」
 こりゃ見透かされてるな。
 店長をやっているだけはあるのだろう。
 勇也は取り繕うことなく、ありのままを口にした。
「憑いた悪魔に、助けられてしまいました」
「ラスティムゥアにですか」
「ええ。ちょっと失敗もしましてね。だからってわけじゃないですけど、なんとなく複雑ですね、この職業」
「そうです、複雑なのです……でもその感覚を忘れないで」
「肝に銘じておきます」
 一応ね。
 不敵な笑みで答える勇也に、那由はほっとしたかのように息を吐いて微笑んだ。
「よかった。勇也さんの心が折れてなくて」
「折れるかもしれませんよ」
「そう言える内は大丈夫です」
 決めつけた那由は、軽やかな足取りで勇也の隣りに並んだ。
「さぁ帰りましょう、我が家へ」
「あれ、事務所は? 報告書がどうのって言ってませんでしたっけ」
「明日でいいのです」
「ほんとに?」
「店長がいいと言っているのです。だからゴーホームです」
 勝手に手を取り、勇也を引っ張っていく。
「あの、わかりましたから店長、止めません?」
 坂上や、お抱え運転手の宮本らの目があるのだ。
 しかし那由は振り返らずに言い切った。
「もう時間です。店長は止めましょうね」
「じゃぁ那由さん、引っ張るのは」
「いいじゃないですか、友だちと手を繋いだって」
 振り向く彼女の目は若干細められている。どうやら確信犯らしい。
 意外と強引だね。
 お嬢さまの新たな一面を感じつつ、それが気を使っている結果であることを勇也は感じていた。
 ま、ありがたいかな。
 鬱屈しそうだった心が少し救われるなか、なにも言わずに華奢な手を優しく握り返した。
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