三章 ぶれる事実 1

 
 初の滅殺から二日後の夜。
 久々に帰ってきた財前から、勇也は書斎へ来るよう呼び出された。
 お咎めだな。
 足取りが重くなるも言われた時刻にきっちり書斎前へ到着すると、
「勇也さん」
 微かな声へ振り向くと、廊下の突き当たりから顔を覗かせた那由が、口の動きだけで『がんばって』と告げてくる。
 そりゃどうも。
 苦笑で答え、勇也は書斎の扉をノックした。
「勇也です、お呼びにより参りました」
「おう、入れ」
 何度か書斎に入っているが今回はまた格別だ。高まる心拍数を抑えるかのように深呼吸し、ドアを押し開いて一歩踏み込むと。
「どうだった? 滅殺の味は」
 いきなりの問いに、勇也は小首を傾げて聞き返した。
「味、ですか」
「高揚したとか、さらなる獲物をとか、ないか?」
 身を包み込むような椅子に身をあずけた財前が、意味ありげに微笑む。
 試されてるのかな。
 逡巡しながら財前に近づいた勇也は、肩をすくめてありのまま答えた。
「ありません。不完全燃焼でしたし」
「満足できず、か。まぁ初任務、大半の輩が陥るもんだが」
 言いつつ、机にある報告書を指し示し、
「君は定石を踏まなかった。あまつさえ宿した悪魔の暴走を許す始末。大事に至らなかったからよかったものの、試験なら赤点ものだ。そのあたり、言い訳を聞いてみたい」
 来たな。
 神妙な面持ちを崩さず、しばし思案して勇也は答えた。
「試したかったのです」
「なにをだ」
「心を覗かれる、ことに」
「……妙な趣味を持ったもんだな」
「いえ、趣味ではありません」
 否定するも、次の言葉を口にするのをためらう。
「ではなんだ?」
 すっと目を細めてくる財前から、妙な圧迫を感じはじめる。
 ここが分岐点だな。
 呆れられるか、容認を得られるか。
 行くしかない。
 意を決し、勇也は内に秘めた決意を口にした。
「心を覗かれることにより、444便に繋がるかもしれないと思ったのです」
「それか」
 軽くため息を吐き、財前は目を閉じる。
 沈黙があたりを支配し、一拍の時が過ぎたとき。
「これからも試し続けるのか?」
 貫け、勇也。
 自らに発破をかけ、はっきりと言い切った。
「試します」
 財前の目が見開かれ、睨まれるも睨み返す。
「危険を伴っても?」
「はい」
「得られるものが無くともか?」
「試します。それに報告書へ書いた通り今回は」
 言いかける前に財前が遮る。
「あれは君の願望だろう」
「そうであったとしても、いつかはたどり着くかもしれません、本当の事実に」
「事実か」
 背もたれから身を起こし、報告書以外の書類を手に取って続けた。
「まさしく壁だな。あの件は、乗り越えるべき壁として未だ君の前にあるわけだ」
「はい」
 乗り越えねば、片付けなければ、一歩も前へ進めない。
 それが唯一生き残った者の責務だ。
 俺は事実を知らねばならない。だからこそ。
 揺るがぬ思いを抱える勇也に、申請書から数枚抜き取った財前が微かな笑みを湛え、
「たしかに、悪魔のなかには心を読み、それを糧として別の事象を引き出すなんて輩もいる。希だがな」
「当たるまでやらせてください。いえ、常に滅殺を。たとえこの身がどうなろうとも」
「おいおい、それは困る」
「困る?」
「そうだ。君には那由の面倒を見てもらわないと」
 へ?
 いきなりの振りに眉をひそめる。
「ところで、手は出したのか?」
「なんのです」
「那由にだよ」
「出しません。出すわけないじゃないですか」
 言い切ると、財前は大げさにため息を吐いて首を振った。
「そこまで嫌われているとは、不憫だな」
「き、嫌ってませんよ。ただそういう関係でなく、というより俺にはまだ、そんな余裕は」
「ないか。ほんと、生真面目だな」
「いけませんか」
「大いに。なにしろ君が選んだ道は限りなく危険だ。わかっているんだよな?」
「充分にわかっております」
「頭だけでだと思うがな」
 再び椅子に身をあずけた財前は、軽く伸びをして了承を口にした。
「まぁいい。君の好きなようにやってみたまえ」
「よろしいのですか」
「否定して欲しいのか?」
「い、いえ。ありがとうございます」
 一礼するも、心はすでに次へ移っていた。
 ここがチャンス。
 財前の感触から行けると判断し、勇也は踏み込んだ。
「了承ついでに、お願いがあります」
「なんだ? 厚かましいが聞いてあげよう」
 じゃぁ言いますよ。
 皮肉が来ても構わず押し切る。
「近いうちに京都へ行きたいのです」
「京都、なぜだね」
 薄ら笑いで睨む財前へ、胸ポケットに忍ばせた一枚の紙を取り出す。
「サイモン教授からの紹介で、情報屋であるらしいこの人物、成井良司氏に会いたいのです」
 報告書の上に置いた写真付きの紹介状を、財前は嫌そうに軽く摘んで確認し、
「ドクターも食えないね。ま、考えていることは同じなわけだ」
「同じ、ですか」
 言い終わらぬうちに紹介状を投げ返され、さらに三枚ほどの申請書が勇也の前に提示される。
「これは?」
「行きたいのなら自分で行くんだな。しかし学校は休むな」
「は、はい」
 いともあっさり降りた了承に声がうわずる。
 そんな勇也に構うことなく、財前は申請書を指差し、
「私みたいな地主は別件扱いだが、君のような一般滅殺業者が領地外へ出向くには許可がいる。必要事項を書き込み、事務に提出しておけ」
「必須、というわけですか」
「そうだ。滅殺業者は管理されている。破ればそこらの野良と変わらなくなる。また、京都へ行ったら最初にすべきことがある」
「なんでしょうか?」
「地主への挨拶だ。怠れば同業者に狩られるぞ」
 言いながら卓上のカレンダーを手に取り、
「申請して、早くて三日、遅くて一週間で許可が降りるだろう。となると、ゴールデンウィークがちょうどいいか」
 理想的です、それは。
 一週間弱で京都となる。
 これで少しは前に進めたら……いいな。
 願望通りに進んだことでほっとするのもつかの間。
「ところで、先立つものはあるのか?」
「それ、ですか」
「なにやら部に入ったそうじゃないか。高校の部活動はそれなりに飛ぶだろ」
「ええ、たしかに」
「どうだ、援助が欲しいか?」
 喉から手が出るくらいに。
 しかし甘えるわけにはいかなかった。
「いえ、自分でなんとか。今まで稼いだバイト代でやりくりできそうですし」
「殊勝だな。まぁ援助となれば、幾つか条件をつけてやろうと思っていたのだが。無欲の勝利だな」
 頬杖をついて微笑む姿は、まさに悪魔と言ってもいい。
 あぶねぇあぶねぇ。
 飛びつかずに正解、そう思っていた矢先。
「では、あとのことは那由に相談するように」
「はっ」
 威勢良く答えるも、冷静な部分が即座に『ノー』と弾き出す。
 って、やばいんじゃないか。
 悪い予想はそのまま現実化する、そんな気がしてつい口走った。
「あの、店長にですか」
「なんだ、嫌なのか?」
「いえ、そうではありませんが。なにかこう、微妙なと言いますか」
「……なるほど」
 しばし思案した格好を見せる財前だが、妙に芝居がかった動きと言えた。
「それは気付かなかったな。しかし支店の長はあの子。嫌でも話さねばならん。その後の対応は君に任せた」
「りょ、了解」
 金銭面以外で、さらなる障害が発生した瞬間であった。
 
  ◇◇◇
 
 肩を落として退出した勇也を満面の笑みで見送ったあと、財前は通話状態にあったケータイを取り出した。
「いかがでしたか、彼の反応は」
『悪くないが、食えないのは君のほうだろ』
 ため息混じりの声に、財前は眉をひそめる。
 よく言う。狸ジジイが。
 心だけで罵り、財前は淡々と話を続けた。
「まぁそれは置いて、彼の探求心は本物です。いずれ彼は、自らが望む真実へ到達するでしょう」
『そうでないと泳がせている意味がない。しかし手に入るものが本当の事実かどうかは、永遠にわからないだろうがな』
「同感です」
『で、食いつき具合はどうなのかね?』
「上々です」
 知っている癖に。
 白々しいサイモンに対し、勇也の現状を思い描きながら口にした。
「まるで我々の中に裏切り者がいるかのように、向こうの動きは的確ですね」
『裏切りか。あり得る話だ』
「あなたでは?」
『私は君かと思っているが?』
 またまた。
 いきなり切り込んでも、動揺することなくあっさり返される。
 真実だからか、それとも偽ることに長けているからか。
 判断に困るんだよな、この先生は。
 逡巡しつつも答えを出さず、財前は流した。
「まぁどちらにしても、我が組織も一枚岩ではないということで、情報は奴らへ流れ続けると見ていいでしょう」
『では今後も、エサに食いついてくるわけだ』
「でしょうね。やはり彼は魅力的なんですよ」
『彼が、かね』
「彼女も、かもしれませんが」
『両方だと思うがね』
 にしては鈍い。向こうもトラブルを抱えていると見るべきか。それともまわたを締めるように……。
 つい考え込むが、サイモンの声が現実へ引き戻す。
『ともあれ警戒はそれなりにな』
「その点はご安心を。うちのスタッフは優秀ですから」
『君よりもな』
「おっしゃってくれる」
 皮肉を軽く受け流し、別の案件を口にした。
「で、そろそろですよね」
『生活監査か。日程はそちらに合わせよう』
「了解、決まり次第、係の者が連絡いたします」
『ああ、よろしく』
「では、勇也くんをより良く導いて下さい」
『計画通りにな』
 含み笑いと共に通話が切れ、財前はゆっくりケータイを降ろしていく。
 計画か。
 自然と口元がほころび、過ぎる思いが口を突く。
「うまく行きますかな、ドクター」
 
  ◇◇◇
 
 授業が滞りなく終了し、高校入って二度目の部活動。
 ま、新人ってのはこんなもんだよな。
 軽くため息を吐きながら、屈んだ状態で草を刈っていく。
 新人故の仕事だ。
 先輩らが袴姿であるなか、新人のみが紺色の体操服に身を包み、基礎的な筋トレをやったあとは雑用に回される。
 今は弓道場に生えた雑草を綺麗に刈り取る作業だけ。
 新人六名の内、二名の女子が床掃除に行き、残り四名で刈っている。しかし男女比は半々で領域を振り分けても、必然的に男子の負担が多くなって来ている。
 別に女子が怠けているわけではない。
 鈴白などは黙々と草を刈り続けているが、それを一人の男子生徒が強引に邪魔、もといはりきって彼女らの領域まで刈っているのが現状だ。
 わからんでもないん、だけどさ。
 勇也は肩をすくめるのみだ。
 もう一人の一年男子、橋爪はそういう男だった。
「任してくれ、こういうのは得意だ」
 坊主頭に近いスポーツ刈りの男が破顔一笑で告げ、彼女たちの仕事を強引に手伝う。あまりの勢いに、女子たちもありがた迷惑であることを口にせず、橋爪に任していく。
 代わりにとばっちりを受けるのは勇也で、一緒に増量分の仕事をするはめになったのが部活初日であり、今もまた仕事の量が増えようとしていた。
 下心はあっても悪意が無い分、困るよな。
 眉をひそめて草を刈る、そんな勇也の背後から声が掛かる。
「大変だね、柊くん」
「それほどでもないさ」
「でも顔に出ているような」
「そうか」
「そうだよ」
 同意しつつ隣りに屈んだ鈴白が顔をのぞき込んでくる。
「やっぱり眉間にシワが」
「歳だから」
「そうかもね」
「……いや、そこはちょっと」
 突っ込めよ。
「あ、気にした?」
 軽やかに笑った鈴白は再び草刈りへ向かうも、
「ただ柊くんって、なんだか違うから」
「なにが」
「やっぱ苦労が滲み出ている気がして。ちょっと年上っぽく感じる」
「まぁ苦労はしているよ」
「でしょ。なんとなく雰囲気が違うよ。懐深いというか」
「一応、褒められているのか」
「そのつもりだけど」
 愛嬌のある笑顔を向けてくる鈴白が、なぜか勇也にはまぶしく見える。
 こういうのも、悪くない。
 普通っぽいのだ。
 那由や令子とはあきらかに違う。鈴白と話していると、まるで昔に戻ったかのような錯覚すら覚える。
 もう決して、戻れないのにな。
 脳裏を過ぎる記憶へ身を委ねたい欲求に駆られるも、勇也は振り払うように頭振る。
「どったの?」
「いや、ちょっと眠気を」
「眠いんだ」
 咄嗟の言い訳であって、眠いわけではない。
 それでも軽くあくびをして見せ、切り返した。
「そっちは?」
「べつに。でもなんか疲れたかな」
 鈴白は額の汗を拭い、空を見上げる。
「今日の日差し、強かったよね」
「夏ほどじゃないけど」
「うん。けどなんか……あ」
 なにかを思い出したのか、鈴白は声をひそめて聞いてきた。
「あのさ、後悔してない?」
「なにを」
「弓道部に入ったの」
「べつに」
「ほんと?」
「もちろん……ま、ちょっと金の心配したけどさ」
「それそれ。なんとなく悪いことしたかなって」
 笑顔が曇り、視線が草のほうへ落ちていく。
 なんだ、気にしてたのか。
 たしかに見学無しで、すでに部員登録されていたことには苦笑するしかなかったが、ありがたいとも思っていた。
「気にするな。選んだのは俺だし。それにまだ本格的に金が必要なわけじゃないしな」
 袴代ぐらいで、弓矢の経費はまだ先だ。
 実際に触って練習をはじめるのも早くて二ヶ月後。そのときですら部の備品を使ってやることになっている。個人所有するとしても選択制で、その頃には金欠状態から脱しているだろう。
 お陰で旅費代に回せるし、先行きは明るいね。
 知らずとほくそ笑むも、肝心の相手は未だ気落ちしていた。
「でも……」
 仕方ない。人間関係を円滑に動かすにはサービスが必要だ。
 自らに言い聞かせ、草を刈りながら口にした。
「だから気にするなって。鈴白には感謝すらしているんだから」
「感謝?」
「ああ、いろいろとね。気を使ってくれてるだろ」
 クラスや部活でも、勇也は若干浮き気味だ。バイトをしている背景や、過去のいきさつが馴れ合いを避けさせるのだが、そんな勇也に唯一対等に話しかけてくるのが委員長の新垣や、鈴白だった。
 鬱陶しいこともあるが……悪くはない。
 素直に感じたことだ。
「気遣いってのかな。よくやるなとは思うけど、感謝はしているんだ」
「そ、そうなんだ」
 うわずった声につい顔を上げたくなる、そのとき。
「柊くん、ちょっと来て」
 射場から声が掛かり、振り向くと香桜鳴美が手招きしていた。
 たしか二年女子の副主将……なんだ?
 疑念が過ぎるもすぐに振り払い、
「今行きます」
 立ち上がって答える勇也に、傍らから声が掛かる。
「ほれ、貸して」
「うん? 悪いな」
 鈴白へ鎌を渡し、矢道の草原を突っ切って射場へ上がると、香桜以外の先輩が数人集まって来る。どの顔もにやついた笑みが張り付き、これから何が起こるのか簡単に推測できる状態にあった。
 まったく、物好きだな。
 内心で呆れながらも、顔に出さず伺ってみる。
「なんでしょうか?」
「本当なら宝田先生が見る予定だったんだけど」
 言いながら、弓矢一式を持った香桜が近づいてくる。
 黒髪を目元で切りそろえたショートヘアが涼やかであるも、強固な意志を現したかのような大きめな目が、妙な圧迫を覚えさせる。
 たぶん、似てるからだな。
 令子を彷彿させる押しの強さが、香桜にはある。
「柊くん、君ってば経験者なんだってね」
「かじった、程度ですけど」
「それでも、これ」
 一式を差しだし、香桜は微笑んだ。
「一矢だけ、弓を引いてみて」
「我流でもですか」
「いいって。どんだけできるのか、判別するだけだから」
 怪しいな。
 責任者もいない時点でおかしい。
 しかし香桜らが遊び半分でやっているとも思えない。
 純粋に腕を見たいのか。それとも講師の締め付けがゆるいのか。
 どちらも、かもしれないな。
 なにしろ星鳳弓道部の成績は鳴かず飛ばず。部の雰囲気も厳しさからはほど遠い。唯一、目の前にいる香桜だけが息巻いている、ように見えるほどだ。
「嫌かな、やっぱり」
 催促と同時に周りの目が集中してくる。その内訳は興味が過半数であるも、ちょっとした蔑みめいた視線が混じっていた。
 やっぱ幽霊部員候補、ってのが気に食わないのかな。
 空気を読みながら、勇也は再度問いかけた。
「礼節もなにも知りませんけど。よろしいのですか」
「いいよ。そんなの、あとからどうとでもなるから」
 道を重んじる人が聞けば激怒しそうな内容だ。どうやら香桜は純粋に腕を確かめたいだけらしい。
 困った副主将だな。
 将来の部長候補から差し出された弓矢を、勇也はため息混じりに受け取った。
「よし、やってみせて」
「笑わないでくださいよ」
「笑わないから。ってそれだけでいいの?」
 怪訝な顔をする香桜に、勇也は軽くうなずく。
「いいんです。どうせ中りませんから」
「いや、そうじゃなくて」
 手に嵌めるゆがけなども一式のなかにあったが、勇也は取らなかった。
 わかってはいるけどさ。
 それなりに知識はあっても、訓練院でやった実戦はまったく違った。
 ただ弓と矢があるのみだ。
 これだけのほうが慣れてるし、たとえ違っても意味がない。
 不敵に笑い、勇也は香桜から離れる。
「強情ね。まぁいいけど。ちなみにそれ、伸弓だからちょっと大きいよ。君には合っていると思うけど」
「それはどうも」
 弓がどうのなど、気にも止めない。
 訓練院で使っていたものは和弓ですらなかったのだから。
 そうさ、なにもかもが。あの頃とはまったく。
 野山に放り出され、飢えをしのぐために獲物を狩ったときとは雲泥の差だ。
 なんとなく、血がたぎってくるな。
 記憶が心を刺激し、吐く息が次第に冷たくなっていく。
「みんな、上がって。ちょっと試すからさ」
 香桜の呼びかけを聞きつつ射場の真ん中へ進み、射位に入る。
 たしか作法があったと思うが……無視すっか。
 やる気はすでに別の次元へ向かっていた。
 二八メートル先にある的が、今では獲物に見えてしかたない。だからか、視界の隅で射場に上がろうとする鈴白らの動きなど、まったく気に掛けていなかった。
 辺りの声も耳に入らず、勇也は一矢だけのために没頭していく。
 射抜く。それが生きることに繋がり、俺の力が目覚めた……久々に試してやる。
 意を決したと同時に、勇也は矢をつがえて弦を引く。
 作法そっちのけの勇也に失笑が上がるも、構うことなく狙いを定める。
 息を整え、意識を高め、敵を……。
 気迫が威となり、辺りを侵食していく。
 失笑も止み、一拍の間が空くなかで。
 落とす!
 唐突に吹いた向かい風を物ともせず、矢を放つ。
 力と意志が込められた矢は風を切り裂き、あり得ない速さで矢場を突っ切り、的の中心を射抜いた。
 一瞬の出来事に、周りからは声も上がらない。
 ただ香桜だけが拍手し、
「見事ね、柊くん」
 深く一呼吸し、近づく香桜へ振り向く。
 涼やかな笑顔だ。
 へぇ。結構違うようで。
 感心しつつ苦笑を浮かべ、勇也は弓を差し出した。
「まぐれですよ、まぐれ」
「本当かな。あんな状態で射抜くなんて」
 香桜が弓を取り、的を見て目を細めた、そのとき。
 背後で鈍い音が鳴り、鈴白の名を呼ぶ甲高い声が弓道場に響き渡った。
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