三章 帰還した者 2

 
  ◇◇◇
 
 急がねばならない。
 祐太朗が取った選択は、早期撤退だ。
 元々一泊二日の予定であり、今日帰ることは不自然ではない。ただ帰る方法が常識から逸脱している点と、気付かれぬうちに帰るという二点が違うだけだ。
 とにかく、この場に留まり続けるのは不利だ。
 祖母のお見合い話以上の面倒が降りかかる、可能性は高い。特に伯父や伯母絡みの、遺産相続問題など来ようものなら、泥沼化は避けられない。こっちは放棄する気満々なのだが、向こうは納得しないのだ。
 実家にいた頃、親戚からの電話で言い争う親の姿を見ていた。いやでも聞こえてくる声から推測するに、金に目が眩んだ者は、他人も自分と同じ選択を取ると思い込んでいる節がある。信じられないのだろう。まだ幾ばくかの金を要求したほうが、納得しやすいのだろうが。そうなると、金の亡者どもと向き合うことになる。
 ごめんだね。そんなの。
 逃げ出したい。
 思いは一つだ。
 しかし逃げ出すには、諸々の問題を片付けねばならなかった。
 まず、六郎の『遺産』という名の粗大ゴミ。
 捨てるのは簡単だ。
 放置するのも簡単だ。
 でも、どちらもできない。
 あきらかにゴミと言えるものであっても、あの叔父の物なのだ。
 祐太朗の前に選択肢はなかった。
 持って帰る。
 または一時的に補完する場所に預ける。
 昨日は段ボールに囲まれながら、夜半まで極神大全を読み漁り、ある程度の結論には到達していた。すでに実験は済ませ、あとは本格的に呪術の力を解放すれば、時空の歪み内に作り上げた空間に転送される仕組みになっている。
 ただ不安はある。
 本当に安定している空間なのか。そもそも、そんなものが存在するのか。疑念は絶えずついて回るが、今は成功を願うことしかできない。
 もう、時間もないし。
 時刻は午後二時を回ろうとしている。
 お見合いを途中で逃げ出した祐太朗は自室へ直行し、スーツを脱ぎ捨て、元のみすぼらしい灰色のシャツにジーパンへ着替えると、即行で叔父の部屋へ駆け込み、昨日の続きを試し続けた。
 物の出し入れが出来ることも実験し、呪術も確認し終えた今、あとは締めの呪文を唱えれば、目の前にあるすべての段ボールは消え去る。
「これで一つめが」
 片付く。
「次は」
 意識が行くのは、見合いの件だ。
 結果はまだ出ていない。
 いや。
 結果を出すのは祐太朗自身。
 答えはすでに決まっている、破談だ。それを祖母に告げるのは、まだ早い。タイミングは夕方、この館を出て行く直前がいい。
 もしくは。
「唱えたあと、かな」
 それだけ、早く姿を眩ませたい。
 真美子は別荘へ戻っているだろうが、破談後に取る行動は予測不能だ。なら最悪の展開を考えて行動しなくてはならない。
 あきらかに、真美子は異常なのだから。
 敵意はないんだが。
 あのとき。
 真美子は欺いた。
『大人であれば、誰でも隠し事はありますよ』
 常識的な回答だ。
 しかしそれが最後だった。
 事実に心が囚われている最中、邪魔が入った。
 祖父の大徳が庭園から声を掛けてきたのだ。
 何気なさを装っていたが様子を見に来たのは見え見え、だが彼の登場は停滞しつつあった場を動かすにはちょうど良く、祐太朗にとっては助け船そのものだった。
 逃げよう。
 心を決め、祖父を交えて何気ない会話を数回こなしたあと、隙を見計らって祐太朗は『叔父の遺品を片付ける』という理由を上げて否応なく逃げ出したのだ。
 真実を知るには、背負うものが多すぎた。
 今、本当に必要なのは真美子の謎ではないのだ。
 すべては叔父が帰ってきて、はじまる。
「急ぐぞ」
 自ら促し、極神大全を手にした祐太朗は、うずたかい段ボールの山を睨んで呪文を唱えた。
 
  ◇◇◇
 
 何度も確認した。
 尾行はないはずだ。
 探索の呪文すら使用し、半径百メートル圏内に一メートル以上の生物は感知されなかった。
 大丈夫。
 少し息を切らせたが、永続的な体調維持能力が働き、身体的な疲労は瞬く間に消え去る。
 だが心は、そう簡単にはいかない。
 極神大全に精神面の対策はあったが、祐太朗は未だ使用はしていない。心にまで力の作用が及ぶと、本当の心がわからなくなる気がするのだ。
 だから今。
 祐太朗は恐怖に怯えている。
 それでもこの場から逃げるわけにはいかなかった。
 あの墓地だ。
 死者が帰還する場所。
 叔父を迎えねばならない。
 しかしまだ陽は高く、帰還には三時間ほど早い。
 急いだ結果、予定は大幅に狂っている。
 手を打つしかない。
 すべては逃げるためだ。
 空知の土地から、強引な祖母から、そして不気味な真美子から。
「やるぞ」
 脳裏を過ぎる様々な思いを振り払い、片膝を着き、右手を大地に添えて短い呪文を唱えた。
 結果は徐々に現れてくる。
 周りの空気が湿り、蒸し暑さが増していく。
 来る。
 見渡すと、辺り一面がもぞもぞと蠢きはじめる。
 土地が動く、そう見えるほど動きが顕著になり、地中から虫がはい出し、草が芽を吹き、早送りのように伸びていく。
 唱えたのは生命活性化の呪文。
 普段の使用方法とは違うが、そのまま土地に効果を発揮させると、一気に土地の息吹が活性化していく。
 だが、この地には別の呪文が掛かっている。
 鬱陶しいほどに生えた雑草も、飛び跳ねていた虫たちの大群も、一分後には枯れはじめ、虫たちも姿を消してしまう。
 吸い取られたのだ。
 生命の源を。
 これで時間が短縮される。
 死人帰還の項目にあった注釈付きの非常手段だ。元々使う気はなかったが、急ぐために祐太朗はあえて実行を選択した。
「あとには」
 決して戻れない。
 結果が来るのだ。
 良心の呵責に苦しんだはずの結果が。
 命を冒涜した結果が。
 ゆっくりと祐太朗の前に現れようとしていた。
 そよぐ風に混じって、異質な音色が聞こえはじめる。
 こいつは……。
 聞こえるはずのない音を、強化された聴覚が拾う。
 枯れきった土地が、たった一つの鼓動を鳴らしているのだ。
「第二の、誕生だ」
 つぶやきながら立ち上がった祐太朗は、枯れ草の土地に焦点を合わせたまま三歩下がった、ときだ。
 唐突に枯れ草が動いた。
 下から突き上げられるかのように。
 一回、二回と地中から衝撃が走る。
 帰ってくる。
 あの叔父が。
 恐怖と期待と好奇心がない交ぜ状態で呆然と立ちつくすなか、なにかが枯れ草を突き破った。
 白い。
 真っ白な腕だ。
 広げられた五指は波打つように蠢き、次第に力を込めて握られていく。
 これが。
 死者帰還。
 あれが。
 叔父。
 視覚からの情報を吟味するも、祐太朗はすぐに眉をひそませた。
 それがなんであるか。
 わからぬまま、もう一本、左腕が地中から突き出てくる。
「え?」
 小さく口にしたと同時だった。
 祐太朗は目を見開き、一気に飛び退いた。
 直後、枯れた土地に無数の亀裂が走り、噴火の如く地中から爆炎が巻き上がる。
 爆音が轟き、熱風が押し寄せる。
 一足遅れていれば炎に炙られたのは確実。それでも爆風に身体を弄ばされ、祐太朗は杉林の斜面まで吹っ飛び、転がり落ちて幹に背中をぶつけてしまう。
 声にならない呻きを上げるも、即座に立ち上がった。
 林の先、忘れ去られた墓場があった場所を見上げると、赤々と燃え上がった炎が辺りへ侵食しはじめていた。
 あきらかに。
 あり得ない。
「あれは」
 呪術だ。呪術の炎だ。
 そこから導きられる事実は、たった一つしかなかった。
 しかし理性が、疑う心がノーだと吠える。
 もう祐太朗自身も気付いている。
 迫り来る事実。
 取り返しのつかない、巨大すぎる誤算。
「罠だ」
 自然とうめく最中、状況は動いた。
 見上げた先で、赤々とした炎を背にして人が現れた。
 白く、漆黒な者。
 一目見て、美しいと感じた。
 そしてこの事実に心が止まった。
 女だ。
 長く、腰まである黒髪が熱風に踊る。
 白い肌が、赤々と照らされる。
 胸にはふくよかな膨らみと薄いピンクの蕾があり、細いながら肉感的な足の付け根には薄い陰りが見える。
 女は全裸だった。
 なのに羞恥心もなく、ただ棒立ちのまま蒼い瞳が祐太朗を睨んでいる。
「どうして」
 わかっているはずなのに、目の前で起こっている事実の先にいる者へ問いかけてしまう。
 だが答えはない。
 代わりに身体が動いた。
 危険だと、なにかが察知した。
 強化された筋肉が瞬時に反応し、右へ一歩飛んだ直後、赤い閃光が走る。
 こんなのって。
 攻撃だ。
 女の目が怪しく光ったと同時に二つの光線が走り、後方で爆音が轟く。
 しかし後ろを見る余裕はない。
 ただ一点、女の一挙手一投足に全神経を集中しなくてはならず、肝心の相手は避けられたことにだろうか、小首を傾げてじっと祐太朗を見ていた。
 どうする。
 一瞬迷うも、選択は一つしかない。
 逃げる。
 今の状態で闘う選択はあり得ない。あの攻撃を見たあとでは尚更だ。勝てる見込みなどこれっぽちもなければ、元来喧嘩すらしたことない、逃げの一手だったのだから。
 くそ! もっと早くに手を。
 想定はしていたのに、まだ大丈夫だろうと甘い読みがあった。
 悔やまれるが、事態はどうにもならない。
 現に敵は目の前に立ちはだかり、ゆっくりと彼女の両手が上がっていく。しかも口元はせわしなく動いている。あきらかに呪文詠唱であり、次の攻撃がはじまることを示唆していた。
 逃げねば。
 女の周りから波動を感じる。
 空気が震え、目に見えぬ圧力が高まっていく。
「やばい」
 口を突くほどに危機感が高まり、逃げることが絶望的であると本能が悟る。それだけの圧迫が存在するのだ。
 どうするんだ!
 焦りが苛立ちを呼び、視線をところ構わず飛ばした、そのとき。
 ふっとかき消えた。
 重苦しい圧力から解かれ、一瞬の静寂が訪れる。
 なにが。
 答えが出る前に目は女を追う。
 両手を天に掲げたまま動きを止めた女は、ゆっくりと前のめりに倒れていく。
 なんだ?
 状況へ問いかけると同時に、直感が口を突く。
「自滅」
 帰還後がどれほどの体力を有しているのか定かではないが、万全でないのは確かだ。帰還そのものに全生命力が注がれているのだから。そんな状態で強力な術を二発も使用すれば、気を失うのも当然だった。
 チャンスだ。
 逃げるにしろ。
 再度、死の世界へ送り返すにしろ。
 絶好のチャンス。
「わかってる」
 己に言い聞かせるようにつぶやいた祐太朗は、ゆっくり歩を進めた。
 逃げるのではなく。
 前へ。
 斜面を登り、倒れた全裸の女を見下ろす。
 殺せば楽になる。
「わかってる」
 元々死者だ。敵だ。死して当然なのだ。
「わかって」
 心の声に眉をひそませつつ、祐太朗は黙り込んだ。
 数回息を整え、そっと片膝を着いて右手を彼女の首元に添えた。
 しっとりした感触を味わいながら少し押し込む。
 肌の弾力が指を押し返すなか、血管の流れが指先から伝わってくる。
 やっぱり。
 生きている。
 生命として、人間として、目の前にあるのだ。
「ぼくには……無理だ」
 三日前までは単なる三流の大学生。
 暴力を嫌い、憎み、常に逃げていた男だ。
 そんな人間がいきなり変わることなどできはしない。まして人の命だ、虫を殺すのとは次元が違う。命は平等ではなく、重みがはっきりと違うのだから。
 ぼくには、重すぎるんだ。
 全く知らない者であっても、人と認識した時点ではっきりした。
 最後の理性が祐太朗を押し止めたのだ。
 肩を落とし、添えた右手を離して顔を上げる。
 視界の大半は炎が覆っていた。
 このままでは焼け死ぬ。
 理解した途端、炎の熱を身体中が感じはじめる。
 消さないと。
 過ぎった意志が鞄を求め、極神大全を手にした、そのとき。
 祐太朗の動きは止まった。
 視界の角に、映った。
 あり得ないはず。
 しかし心のどこかで危機感は抱いていた。
 だからこそ、驚きはすれど淡々と祐太朗はつぶやいた。
「最悪だ」
 ゆっくりと視線の先を合わせる。
 そこには。
 薄ら笑う真美子が居た。
 白黒のボーダーなワンピースに黒のスパッツ姿で、両腕を組んでの仁王立ちしている様は、あきらかに場違いで、あきらかにすべてを見下している。
 その笑顔が、証拠だ。
 彼女は、目の前で起こっている事実すら把握し、楽しんでいるに違いない。
 異常事態なのに。
 真美子は平然と声を上げた。
「ごきげんよう、祐太朗さん」
 直感が確信に変わった瞬間だった。
 どうする、祐太朗。
 足元には気絶した美しい裸体を持つ敵。
 背後には炎を巻き上げて広がりつつある山火事。
 そして近づいてくる、魅力的な異常者。
 三つの難題が脳裏を過ぎった、その時点で祐太朗は考えるのを止めた。
 なにもかも。
 張り詰めた糸が急に切れたかのように、がらっと心が変わっていく。
 どうでもよくなる。
 笑いに似た衝動がこみ上げ、自然と口元が歪むと同時に祐太朗は答えた。
「ごきげんよう、真美子さん。ただこの状況は、まったくあなたに似つかわしくない。それとも、本来のあなたならぴったりですか?」
「ぴったりよ」
 間髪入れず、真美子は認めた。
 ほんと、正直だな。
 驚きを通り越して呆れるなか、さらなる言葉が紡ぎ出される。
「無理ならば。私がやりましょうか」
「なにを?」
「惚けないで」
 きっぱり言い切った真美子は、足元の女を指差す。
「これを、殺すか、殺さないか」
 選択を促す真美子は、なにも変わっていない。
 涼しい顔で聞いてくるのだ。
 だが、理性の一部が飛んだ祐太朗にしてみれば、驚くほどでもなかった。ただ疑念が過ぎった。
「真美子さんなら、できるわけ?」
「できるわよ。なんなら早速」
 屈んで手刀を作り、振りかぶっていく。
 その様を眺めていた祐太朗であったが、振り下ろされる直前に小さくつぶやいた。
「考えがある」
「なら、どうする?」
 小首を傾げる姿が微笑ましい。
 そう感じるのもつかの間、祐太朗の思考が溢れ出す。
「彼女から聞きたいことがある。彼女しか知り得ないなにかを。だから連れて帰る必要がある。でもこのままじゃ危険なんで、手は打たないといけないなぁ」
 掴んだ極神大全を取り出す、前に真美子が口を挟んだ。
「だったら急ぎましょう。まずはこれを匿う必要があるから、私の別荘へ」
「真美子さんの?」
「ほかに手はある? 連れて帰るにしても、これ、裸でしょ?」
 たしかに。
 ここは乗る方が良いだろう。
 しかし真美子への危機感、不気味さは残るどころかますます高まっている。なにせ彼女は『できる』と答えたのだから。
 異常者だ。
 ただ、祐太朗もまた同じ異常者だ。
 もう逃げられない、か。
 観念めいた思いが芽生えると共に、妙な清々しさと、高揚感が台頭してくる。
 どうやらぼくは……踏み込んだらしい。
 理性の壁が立ちはだかっていた向こうへ、甘美な世界へ。
 自然と口元が歪むなか、真美子がぐったりした白い裸体を抱き上げる。
「祐太朗さん、鼻の下が伸びてます」
「まさか」
「本当です」
 状況にそぐわない会話も普通にこなせる。
 そのことに改めて、自分が何者かに変わったと感じる。
 だからだろうか。
 自然と気遣う言葉が零れる。
「ぼくが担ぎますよ。大変でしょう」
「いいえ」
 即却下し、抱きかかえたまま軽く数歩飛び退いて振り向いた。
「私の婚約者に、他の女なんて触って欲しくありませんから」
「その話は」
「いいえ。婚約者です」
 言い切った彼女の頬は少し朱に染まっていた。
 可愛いじゃないか。
 などと思ったのもつかの間、木の弾ける音が響いた。
 やばい。
 振り向いて炎を見据え、極神大全を開く。
「放っておきなさい。もう山が動くわ」
 背後の声にいぶかしむも、彼女の言わんとしていることが祐太朗にもわかった。
 ぽつりと、頬に水滴が落ちてきたのだ。
 雨か。
 見上げると、晴れ間を侵食するように暗雲が広がろうとしていた。
 さっきまで……まさか。
 真美子を見ると、怪しげな笑みを浮かべて促した。
「急ぎましょう。私のあとをついてきてください」
 抱えた女の重さを微塵も感じさせない動きで、真美子は獣道へと飛び跳ねた。
 ほんと。もう違うんだ。
 常識の尺度を確実に捨て去り、祐太朗は一歩を踏み出す。
 新たな異常な世界へと。
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