一章 開眼する男 4

 
 なにも知らなかった。
 無知であったから。
 祐太朗は出来うる限りの手を打った。
 その成果が、ポケットの膨らみとなって現れている。
 ついでに食卓には、夕食の特盛り弁当の空箱が転がっている。
 普段は並しか食わないのに。
 金があると、人は変わるんだなぁ。
 満腹感を味わいながら、ゆっくりと横になり目を閉じる。
 あれから。
 手を打った。
 打ちすぎたとも言える。
 その結果が、別の扉を開けてしまうのは当然の成り行きだった。
「間違えたよな?」
 未だはっきりしない自分自身に問いかけ、記憶を遡る。
 金額は二百万と少し。
 その日出る高額当たり馬券の中から、二番目の馬券を予知した。
 結果は当然の如く的中。
 お陰で特盛りにありつけたわけだし、未だ懐は膨らんだままだ。
 しかし。
 現金を持つことによって襲われるかもしれないという不安と恐怖が、祐太朗を過剰防衛に走らせてしまった。
 襲われることを想定して、肉体強化系と緊急時防御障壁系の呪文を唱えた。
 そのあとになって、特定者から発見されなければ良いことに気付き、存在感が薄いと言われ続けていたにも関わらず、隠密行動用の呪文も唱えていた。
 これで万全、であったはずだが、予知後に場外馬券売り場でのやり取りを思い出した。
 手渡し。
 しかも高額。
 いくら隠密行動をしていても、相手の注意は引いてしまう。
 思わず鏡を見て、自分がまだ若い男であることを再確認した祐太朗は、変貌の幻術を採用した。
 万全だった。
 それでも心拍数は常に青天井状態。
 一歩一歩、踏み出すのでさえ今までと感覚が違った。
 新たな世界、とでも言えばいいのか。
 確実になにかが変わった世界を、祐太朗は満喫することなく、すこしぎこちない歩きで計画を遂行し、なんの問題なく成果を手にした。
「ほんと」
 なにもなかった。
 なにも。
 あるわけが、なかった。
 高額を受け取ったにしても、他人は無関心だ。
 話のネタに取り上げることはあっても、暴力に訴えてかすめ取ろうなど、そうそうあったりはしないもの、なのかもしれない。
 殺伐とした雰囲気もなかったし……ダメだな。
 暴漢に襲われる、事件に巻き込まれる、そんなのは希な出来事。
 よほど目立った行動をするか、危険な状況に陥りやすい不運を持った者に限るのだ。
 たかが。
 高額を当てたぐらいでは。
「そりゃ隠密行動が」
 効いたとも言えるが、今になって思えばそれすらも必要なかったに違いない。
 ぼくは運が良い人間……まさかね。
 信じることはできない。
 確かに。
 襲われたこともなければ、今ある状況は幸運そのものと言える。
「でも違う」
 高額を手にしたときの肺腑から湧き上がる喜びは、短かった。
 気付いてしまったのだ。
 今の状況に。
 そして新たに開いた別の扉に。
 やっぱりぼくは。
「間違えたんだ」
 極神大全を手にしてからの判断を、確実に間違えた。
 抜け出ることはもうできない。
 自分で選択し、自分で招いた失敗だ。
 むくりと起きあがり、鞄から極神大全を取り出す。
 表紙をそっと撫で、小さなため息を吐く。
 最大の間違いは、欲を掻いたこと。
 持続的体力回復と常時的体調維持。
 呪文を何度も唱えるには最善の策であり、完璧な土台だった。
 しかしどちらも永続的効果。
 肉体強化や隠密、幻術などは解除が容易い。それでも幻術以外は継続させているが、基本となる『唱える』ために必要な呪文効果を解除する勇気が祐太朗にはなかった。
 この永続的効果。
 それは不老不死に等しい。
 もし解除が出来たとしても、その代償を払うには膨大な時を要する可能性があり、行き着く先は容易く死を連想させる。
 つまり。
 もう。
 辞めることはできないのだ。
「ぼくは永遠に……」
 実感はない。
 永遠自体が遠すぎだ。
 周りとの時間差が出始めてからが、苦しむときなのかもしれない。
 だからか。
 祐太朗は頭振り、吐き捨てた。
「どうでもいいんだ。どうでも」
 そんなこと。
 そのときになって考えればいいんだ。
 最大の問題を強引に押しやり、祐太朗はもう一つの問題に意識を向けた。
 別の扉だ。
 開いてしまった扉。
 明らかに俗物的な代物だ。
 力を使いはじめ、実際に金を手にしたことにより、沸々と欲望が湧き上がる。
 名誉か。
 さらなる利益か。
 もしくは色欲か。
 なんでもできる。
 なんでも手にできる。
 とてつもなく甘美な誘惑だ。
 そればかりが心を支配していく。
 抗うのは、常識にどっぷり漬かった理性のみ。
「なにもかもが……でもぼくは」
 考えれば考えるほど。
 心は苦しくなる。
 ダメだとわかっているからこそ、苦しむ。
 それでも。
「甘美だ。……この力は」
 力を使って、なにかしたい。
 なにかを成し遂げたい。
 欲求は限りない。
「良いことなら、良いのか?」
 正義なら良いのか。
 力の行使。
 その理由付けに四苦八苦する。
 でもこの苦しみは贅沢だ。
 贅沢故に、誰かに話したくなる。
 それもまた甘美な罠だ。
「自慢したいのか。……そりゃそうだ」
 なんでもできるのだ。
 見せつけてやりたい思いが膨れあがるのも当然だ。
「良いことして、称賛されて、よくあるヒーロー物のように拍手喝采ってか」
 想像して頬が緩む。
 しかし恍惚感も数秒で沈む。
 ガチガチに固まった常識が、理性が、あり得ないと否定する。
 そうさ。現実なんて。
 妬みの宝庫。それだけがすべてと言っても過言ではない。
 覆面? 正体を隠すか……ってそんなことじゃないな。
「問題は別で。結局、誰にも話せないことか」
 秘密だ。
 話せば疑われる。
 話せば証拠を迫られる。
 理解すれば、利用される。
 それが現実であり、それで終わればまだ良いと言える。
 誰にも言えない。
「そうなるが……話せる人なんて、いないか」
 自分の人間関係をもう一度確認する。
 上京してから三ヶ月、未だまともな会話をしたことがない。
 せいぜい挨拶や、仕事上のやり取りのみ。
 友人なんておらず、ましてや女性の影など微塵もない。
 孤独な男。
 故に自然と秘密は守られる。
 その反面、誰にも相談すらできない。
 一人苦しみ続けることになる。
「贅沢な苦しみを。誰にも……」
 脳内に広がる幾多の顔写真。
 どの顔も見覚えがあるも、秘密を共有するまでには至らない。
 誰もが。
 普通の殻を破れぬ、愚民ども。
「などと思っちゃいけないんだろうなぁ」
 苦笑気味につぶやき、再び横になった祐太朗であったが、すぐさま起きあがり目を見開く。
「やばい。違う。大変だ」
 早口で口走るなか、一人の男が脳内でクローズアップされていく。
「なぜ。今。って、ぼくは馬鹿か!」
 手にした極神大全の重みが、さらなる重圧感となって祐太朗の手を震わせる。
 こいつだ。こいつがなぜぼくのところに来た?
「プレゼントだ」
 なら。
 送り主は誰だ。
「空知、六郎」
 名を口にした途端、背筋が寒くなる。
 つきまとっていた違和感の正体が、これだ。
 あまりの出来事に、あまりの能力に、興奮しっぱなしで誘惑に負けたが故に、無意識のうちに除外していたに過ぎない。
 叔父の存在を。
「あの人は、あの人は……すべてを知っている」
 はずだ。
 よくよく考えれば、簡単に導き出せる。
 あの手紙にはなんとあった?
 役目からの解放?
 役目とはなんだ?
「役目とは。人間として生きて、子孫を残し、死ぬこと。生命体として当然の役目」
 基本的なことだ。
 そして極神大全を使うということは、確実に解放されることを指す。
 現に、空知祐太朗は人間ではなくなっている。
「ぼくは、ぼくはもう」
 だけど。
 それって。
「人間からの脱落じゃないか」
 桁外れの力を手にした高揚感。
 人間としての幸せを失った絶望感。
 二つが交わり、祐太朗の身体から力が抜けていく。
 頭を垂れ、肩を落とし、身体を横たえて呻く。
「なんなんだこれは。……しかも相談相手があの叔父さんとは」
 知っているのだ。
 こうなることを。
 知っているからこそ、あんな手紙を書き、はじまりの呪文を挟んでいたのだ。
 ならば。
 叔父は、祐太朗同様、力を使いこなせることになる。
 つまり、すでに人間ではないはずだ。
「仲間? そうなのか」
 しかし。
 わからない点は多い。
 極神大全は今、祐太朗の手元にある。
 すべてを知り尽くしたわけではないが、呪文発動には極神大全が必要だと思っている。これが媒介のはずだ。となると叔父は力を発揮できない、力を放棄したとも取れる。
 それとも。ぼくの知らないなにかを叔父は……。
 深く、深く沈んでいく自分一人だけのやり取り。
 考えても答えは決してでない迷宮。
 動き出さない限り。
 結論がすでに見えてもなお考える最中、祐太朗を引き戻す音が鳴った。
 鞄の中からくぐもったケータイの着信が聞こえる。
 緩慢な動作でケータイを取りだし、相手の名を見た。
 母だ。
 眉をひそめ、祐太朗は通話ボタンを押した。
 幾分、疲れた声が聞こえ、たわいない話が続く。
 そう思っていた。
「え?」
 なにを言っている?
 聞こえてきた内容が、理解できない。
 いや、理解したくなかったに違いない。
 だからか。
 母はもう一度同じ内容を繰り返した。
 それを。
 祐太朗はゆっくり、自分の口で言い直した。
「叔父さんが、亡くなった?」
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