一章 開眼する男 2

 
 読み出してから十分程度経過して、祐太朗はつぶやいた。
「ダメだ」
 読める。
 本格的であり読める文章だけど、内容が辛い。
 ファンタジーだが娯楽色が少なすぎる、というより皆無。
 主人公はとある国の兵士。
 ファンタジーらしく剣や魔法の存在が匂わす文もあったが、物語のはじまりは戦争が終わりかけの略奪シーンから。
 丹念に書かれた殺戮、心理描写などはついつい追ってしまうが、その後も淡々と兵士としての生活が綴られていくだけなのだ。
 こういうのって、小説なのか?
 読書好きでもなく、そんなに読んだ覚えもないが、一時期世間で取り上げられた小説などは、図書館で借りて読んだことがある。それと比べると、なにかがおかしい。
 これが素人の作った物語だから?
 つかみ所のない流れは、読んでいて飽きがくる。
 唯一、独特な点を上げるとすれば、度々主人公が空を見上げる点ぐらいだ。
 その点だけはやけに描写が細かい。
 視線の先にあるのは、天空球と呼ばれる衛星らしきもの。
 しかし衛星にしては巨大な印象を受ける。
 描かれた衛星には大地が、空や海らしきものが見えるとある。
 新天地として、手が届かないまぶしい存在。
 物語の主人公は、暇があれば天空に広がる未知の大地をずっと見つめている。そんな描写がだらだらと続くのだ。
「わからん」
 おもしろいとか、おもしろくないとかの話でなく、なにをしたいのかまったくわからない。わからないからこそ読む気が削がれていく。
 ここぐらいで。
 意識は徐々に台頭してきた空腹感に傾き、祐太朗は読み進めたページに指をはさんで本を掴み、流しに置いた弁当を取りに立ち上がったとき。
 挟んだ指に何かが触れ、紙の擦れる微かな音が上がった。
 足元を見ると、日に焼けたメモ帳の切れ端らしきものが目に入った。
 何の気なしに紙切れを手に取り、書かれた文字を追う。
 魔……堕、理か?
 古印体の字体に似ながら殴り書きのように荒い字面は、正直読めない。しかし無理して読めば、三文字の魔堕理となる。
「まだり、まだり」
 二度、口にしてみる。
 しっくりくる響きだった。
 もう一度口にしたい、そんな欲求が湧いてくる最中。
 本を持つ手が震えた。
 微かな動きにつられ、手を見て目を見開く。
 なに、が?
 わけがわからない。
 目の前で行われていることが、理解できない。
 本は震えている。
 タイトルも震えている。
 なにかが、今、起こっている。
 理解できたのはそこまでだ。
 思わず本を手放す。
 重力に引かれて畳みへ落ちた本は、倒れる勢いと共にページがめくれていき、最後の一枚まで開ききって裏表紙がゆっくり閉じていく。
 ほんのわずかな出来事だ。
 一分にも満たない。
 しかし気付いたときには、口内に唾が溜まり過ぎていた。
 渇いた喉を唾が通り過ぎる。
 その頃になってようやく、祐太朗の思考は動きはじめた。
 なにが? 起こった?
 次第に心拍数が上がっていく。
 錯覚だと、常識が告げている。
 なのに鼓動が楽しげに高鳴り、胸が締め付けられて、せり上がってくるような感覚を覚える。
 どうやら。
「興奮してんの? まじかよ」
 自分自身に呆れるも、恐る恐る手を伸ばして本を手に取った。
 重さは変わっていない。
 裏表紙も変わっていない。
 でも表は?
 なにかが起こったのだ。
 裏返すのにためらいを覚えるも、一呼吸してから一気にひっくり返した。
「やっぱ」
 言えたのはそこまでだった。
 目に入った文字がすべてをかっさらう。
 読めない。
 文字が読めないのだ。
 カタカナでもない。漢字でもなければ、今まで目にした他国の字体でもない。
 うねうねと曲がりくねった文字。
 はじめて見る文字だった。
 なんなんだこれは。……というより。
「確実にヤバイぞ」
 口にして改めて感じる、危うさ。
 目の前で起こった出来事は、常識ではあり得ないものなのだ。
 これ以上、進んではならない。
 危うさがあるとわかっているときに来る、常識的警告が脳内を巡る。
 まるで夜道を歩いているかのような。
 進めばさらに深く暗い、墓場が待っているような。
 独特の危機感が祐太朗を包んでいた。
 しかし。
 反面、なにかに期待する心があるのも事実だった。
 進めばなにかが。
 暗い底に目新しいものを発見する、可能性だってある。
 いつもなら。
 そんな誘惑には乗らないのが、祐太朗という人間だ。
 ぼくは……常識人だ。
 己の心へ言い聞かせる。
 なのに口は動いた。
「魔、堕理」
 好奇心の勝利であり、成果は瞬く間に現れた。
『極神大全』
 ……なるほど。
 異常状態を前にして、脳だけは冷静だ。
 お陰でいきなりタイトル文字が読めても、気にならない。
 そういうものだと受け止めてしまっている。
 常識的警告がかき消え、好奇心に身を任せて祐太朗の脳は疾走をはじめた。
「これは」
 辞典だ。
 なにかの辞典だ。
 大全というからには、すべてが網羅されているなにかの辞典。
「当たりのはず」
 口にしながら表紙を開いた。
 一ページ目は前と変わらず真っ白だ。
 変化があったのは二ページ目から。
 ビンゴだ。
 中身が一切合切、変わっている。
 小説のかけらも見当たらない。
 どこぞの国語辞典のように、三段に分けられた縦書き表記。
 そこにはずらっと、見たこともない文字が刻まれている。
 でもぼくには……。
 読める。
 理解もできる。
 すべてが日本語として読め、それらがなんであるのかすら理解できる。
「もしも」
 想像通りであるのならば、起こる。
 異常な現象が起こる。
 すでに起こっているのだから、また起こる可能性は高い。
 だが疑念はある。
 常に疑っている。
 なにしろ極度の常識人であるから。
 でも止まらない。
 一度走りはじめた好奇心の暴走は止まらない。
 馬鹿げているとわかっていても、試してみたい気持ちはあっさりと常識の箍を外した。
 ……これでいこう。
 選んだ文字を、一字一句間違いなく声にする。
「れ・で・ん・た・す・ら・だ・む」
 言い終わりに十四型のブラウン管テレビを睨んだ。
 やっぱり。
 思わず拳を握る。
 完勝に近い、陶酔を感じる。
 それほどのことが起こった。
 起こってしまった。
 音もなく、約十キロのテレビが浮かび上がっていく。
 ふわふわと、ヘリウムガスの風船と同じように浮かび、天井に当たって小さくバウンドして留まった。
「重力を制御している? それともまったく別のなにかが」
 別のなにかだ。
 心の中ではもう答えが出ている。
 それだけ、異常なのだ。
 今までの常識では答えがでない現象が目の前で起こっている。
 もう止まれない。
 引き返せない。
 顔はゆるみっぱなしだ。
 あまりにも異常な出来事に、興奮したまま思考だけが先を進む。
「力だ」
 非常識的な、物理法則を無視した、別の次元に存在するであろう、力だ。
 そして手にした本『極神大全』はその力に干渉し、引き出させ、現実化させる。
「でも」
 疑念が閃く。
 疑う心が見落としを指摘する。
 リスクは、あるのか、ないのか。
 力を引き出す際に、なにかが減っている可能性は?
 あるな、普通。
 思った直後、ある兆候が現れた。
「これだ」
 確信すると同時に、視界が狭まっていく。
 もう……。
「ダメだ」
 堪えきれず、祐太朗は折りたたまれた畳み布団の上へ倒れ込んだ。
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