四章 教団狩り 2

 
 車内の空気が重い。
 勇也の隣りに座る那由は無言で車窓を眺めっぱなし。
 対面に座る八汰も腕を組んで瞑想したままだ。
 ほんと、居心地悪いんだよね。
 ため息吐きたくなる状況に、勇也も目を閉じて心の中へ逃げ込んだ。
 目覚めたのは翌朝。
 ことの顛末は朝食中に那由から聞かされたが、そのときから彼女の態度はいつもと違っていた。機嫌が悪いと言えばそうなのだが、一言で片付けられない微妙な間が那由にはあった。
 言いたいことが? もしくは聞きたいことでも? ってところか。
 思い当たる節はある。
 しかし勇也から話を振るのは、いただけない話だ。
 頭痛いよ。ラスティの件は。……で、次だ。
 二言三言交わしたのみで黙したままの八汰徹。
 監視として付きそう八汰が不機嫌なのは当然だ。こうして目的地へ向かっている時点で、昨日の顛末が聞いた通りだと確信できる。
 予定通り、とも言えるけど。
 与えられた自由。
 自らの手で勝ち取ったわけではない。
 だからうしろめたく、俺がこの空気を振り払えないのも……。
 自嘲気味な笑みが口元に浮かぶのと同時に車がゆっくり停車する。
 着いたのか。
 窓越しに視線を走らせるも人通りはなく、瓦葺きの民家ばかり。骨董の店がある雰囲気はするが、雰囲気だけとも言える街並みだった。
「到着しました」
 ようやく口を開いた八汰が軽く指を鳴らし、左右の後部ドアがひとりでに開いていく。
「我々はここまで。あとは招かれた者たちだけとなります」
 結界ね……魔人街だからこそか。
 目的地を八汰に告げたとき、彼は眉をひそめて『魔人街か』と吐き捨てた。京都でも印象はよくない地域らしい。
 常時多重の結界を張り、来る者を選ぶってなるとおもしろくないと。
 曰く付きの者が出入りするのなら、なおさらだろう。
 東京の魔人街も一度、財前の管轄下に置こうとしたらしいが、現世に存在するわけではないの一点張りで物別れに終わったと聞いている。
 けどまぁ今の俺には関係なし。結界内に入れただけでありがたいくらいさ。
 送り届けてくれた礼を言い、降りた那由に続こうとした勇也だったが手を掴まれ、強引に座席へ戻される。
「なんです?」
 振りほどこうとするも掴んだ手に篭もった八汰の意志は強く、微動だにしなかった。
 陰険だよな。
 決めつけて睨む勇也に、目を細めた八汰が囁く。
「私は君を認めはしない」
「そうですか」
「ただし女王には敬意を払う」
 つまり、負けたのは女王にであって俺ではない、ってあたりか。
 見当付けつつ言い返す。
「だからなんですか。はっきり言ったらどうです」
「言うさ。君はやはり、那由の隣りに立つ男ではない」
 またそれか。
 うんざりだ。
「だったらあなたが立てばいい」
「残念だが私も立てない。彼女にはもっと、普通な男が相応しい」
 普通? 悪魔憑き以外? そりゃ……。
 当然だと思った。
 幸せを求めるのなら、当たり前のことだ。
 でも彼女自身が悪魔憑き。幸せなど求められるのか。それ以上に彼女は……那由さんの思いはどうなんだ?
 本人の意志を無視した押しつけだと弾き出した途端、思いは口を突いていた。
「彼女は望んでいるのですか」
「望まぬ女は存在しない。しかし那由よりも君が問題だ」
「どんな問題です」
「己を知りもせず、自覚すらしてない。末期だよ、君は」
「死ぬとでも?」
「ぬるいことを言う」
 蔑んだ笑みを浮かべて手を離し、シートに背を預けて吐き捨てた。
「君は魅入られているんだ。それでは彼女が不幸だ」
 魅入られて?
 白銀の髪をなびかせた女王が脳裏を過ぎる。
 俺があの悪魔に。
 笑いたくなる衝動と一抹の不安が同時に生まれ、苦虫を噛み潰したように顔をしかめたとき、窓ガラスをノックする音が聞こえ、不満げな声が続いた。
「いつまで無駄話しているのです? そんなにお二人は仲がよろしくなったのでしょうか?」
「姫、それは決してありえないことだ」
「なら、勇也さんを解放してくれますね」
「お好きに。ただし身の危険を感じたならば、即呼びなさい」
「はいはい」
 軽く流した那由はくるっと背を見せた。
「では早くいきましょう、勇也さん」
「はぁ」
 気の抜けた声を返す間に疑念が過ぎった。
 いつから居たんだ。
 聞かれたのはどこからだ。
 なぜか言い訳を何通りも考えてしまう。
 だからか一歩目が出ず、那由が振り返る。
「どうしました?」
「あ、あぁ今行きますよ」
 小首を傾げた姿に、勇也は慌てて行動に移った。
 八汰に挨拶することもなく車を出て、那由の隣りへ進む。
 すると、彼女は無言のまま路地へと入っていく。
 また重い空気が二人の間に発生していた。
 那由のあとを半歩下がって進むなか、周りの景色よりも勇也の心はある一点に絞られていく。
 こりゃ聞かれたな。
 問題はどこからか。
 くそ、間の悪いことを。……って謀ったのか。
 八汰は当然、わかっていたのだ。
 最初から那由に向けて語った可能性も高い。
 まぁどっちにしろ、この雰囲気を打開しなければならない、わけだ。
 原因はわかっている。
 訓練院時代でも令子で実証済み。
 はっきりさせればいいだけのことだ。
 八汰に振り回されてたまるか。
 反発する心が勇也を奮い立たせたとき。
「望んでいます」
 唐突なつぶやきと共に那由が立ち止まる。
 なにをです。
 普段なら簡単に聞き返せた言葉も口にできないまま、那由の揺れる黒髪を見ながら勇也は立ちつくした。
「夢だってあります。……悪魔憑きであっても、望むのです」
 ゆっくりと目を伏せた横顔を見せ、那由は言い切った。
「私の望みは、私が決めるのです。だから今だけは隣を歩きませんか、勇也」
 空気が変わった。
 一変にだ。
 しかし勇也にはばつが悪い。
 俺が先に言うべきことを。ほんと、その勇気はすばらしい。
 選択は一つ、迷う必要はなかった。
「よろこんで、姫の隣りに」
 横顔に笑みが刻まれるも、那由は眉根を寄せて前を向いた。
「姫はよしてください」
「わかりましたよ、店長」
「店長もです」
「はいはい」
 勇也は半歩進んで、言い直した。
「了解したよ、那由」
「……よ、よろしい」
 一拍の間を置いた那由は、頬をほんのり赤く染めて歩きはじめた。
「さぁ行きますよ。もうすぐ結界も晴れるでしょうから」
 照れ隠しにまくし立てる姿は滑稽だが、微笑ましい。
 悪くない、……けれど。
 まだ浸れない自覚が勇也にはあった。
 あまりにも黒くて、重たい。
 死者と行方不明者を合わせて二六九名であり、生存者は勇也ただ一人。この事実が常に勇也を縛り続ける。
 だから知らねばならない。
 唯一の生存者として。
 定かではない記憶を持つ当事者として。
 違和感のありまくる事実を暴くために。
「ようやく二歩目だ」
 小さくつぶやいた直後、路地の景色に変化が訪れようとしていた。
 
  ◇◇◇
 
 長く、終わりが見えない一本道の商店街。
 時代劇のセットと思わせる瓦葺きの家々が左右に連なり、路上の真ん中を小川が流れる。
 風情ある景色ともいえるが、やはり魔人街。
 街に活気など無く、空は薄い紫色に染まり、行き交う人の姿もまばら。しかも、まれにすれ違う者のほとんどが勇也らと同じ黒服だ。
 誰しもが鋭い眼光を持ち、一度視線を交わすもすぐに逸らしていく。
 滅殺業者だけの街、それが魔人街。
 ただ時折、見慣れぬ民族衣装を身に纏った者が軒先から出て、何処かへ去っていく。興味本位でつい見送った勇也だが、軽く振り返る男に一瞥され、すぐに視線を逸らした。あきらかに威が溢れすぎていた。どうやら人間ならざる者もまた、行き交っているらしい。
 普通なら一触即発。
 しかし現世と異世界との緩衝地帯である魔人街だけは別なのだ。
 状況を把握した勇也と那由は言葉少なに、目当ての店を見つけるべく足早に一本道を進むこと数分。
「ここか?」
 店の前で立ち止まり、住所を確認する。
『太平堂』と書かれた看板の横にある番号と、サイモンから渡された羊皮紙の紹介状と見比べる。
「一応、骨董品の店っぽいですよ」
 那由がのぞき込むショーウインドウには幾つかの壺やら大黒の像、色彩豊かな各種の皿が展示されていた。
 見た目には骨董店としての雰囲気は充分だ。
 間違いは無さそう。
「住所はどうです?」
「同じです。早速入りましょうか」
「ええ。まだ中のほうが安全だと思いますし」
 あたりを警戒する那由の催促を受けて、勇也はガラス戸に手をかける。ねっとりした感触が指先から伝わり、結界に触れていることを意識させる。
 厳重だな。
 それでも弾かれる感触はない。トラップの可能性も過ぎったが、手にした紹介状が淡く光っているのを見て振り払った。
 乾いた音を上げて戸が開く。
 鼻孔をくすぐる乾燥剤の匂いが出迎えるも、人気は感じられない。
「ごめんください。成井さまいらっしゃいますか」
「はぁい、お待ちを」
 那由の挨拶に奥から返事があり、着物に白いエプロン姿の女性が姿を現す。
「あら、かわいいお客さん」
 愛嬌ある笑顔を浮かべた妙齢の女性はすぐに振り返り、声を張り上げた。
「お前さん、ひさしぶりのお客さんだよ」
「……あぁわかっている」
 ふすま越しの声に、床の軋む音が続く。
「ちょっとお待ちになってね。あっ、そうだ、今お茶入れますから」
「いえ、お構いなく」
 定番通りに答える合間にふすまが開き、藍色の作務衣に身を包んだ男が声を荒げた。
「茶はいらん。静、お前は支度に戻れ」
「もう済みましたけど」
「ならさっさと行け。俺はすぐに追いつく」
「でも」
「でもじゃない。早う行け」
「……わかりました」
 渋々了解した静は、軽く会釈して部屋の奥へと消えた。
 そんなやり取りを怪訝に見つめていた勇也たちに、男の声が飛ぶ。
「ぼさっとするな。時間がないんだ、用件を言え」
 目元まである黒髪が邪魔ではっきりしないが、睨んでいるのはわかる。サイモンから渡された羊皮紙にある写真と比べても、見間違いはない。
「その前に、あなたが成井良司さんですね」
 痩けた頬が笑みに歪んだ。
「言ったはずだ。時間がないと。わからないのか、柊勇也」
 フルネームだ。
 俺を知っている? 情報屋だから? ってことは話早いけど。
「じゃ、出かけるのですか」
「めでたいな。それとも、わからなかったのか。つけられていることを」
 つけられて?
 背筋に寒気を感じ、眉をひそめる。
「俺らがですか」
「わかっていないか。めでたいよ、お前ら」
 笑みを消し、成井は淡々と語りはじめた。
「知っているな、斬光の奴らが領域に侵入したことを」
「ええ、聞いています」
「奴らの目的は俺だ」
「狙われる、理由は?」
「簡単だ。奴らの情報を流した、腹いせだ。ここまで言えばわかるか、急ぐ理由が」
「ですが、結界があるのでは」
「だから今、入り口で派手にやり合っているのだ」
 入り口で? まさか。
 過ぎる予測と同時に那由が口を挟む。
「大丈夫です。八汰さまはお強い。狩りを楽しんでいることでしょう」
 だろうな。
 実際に闘った記憶が、彼女の言葉を後押しする。
 しかし成井は違った。
「甘い見方だ」
「八汰さまが負けると?」
「相手は二名、どちらかが強引に突破するだろう」
 悲観的な見方とも言えたが、那由は唇を噛んで押し黙る。
 それほどの?
 敵の力量に疑念を抱きつつ、再度指摘する。
「でも結界があるでしょう。簡単には突破できないはずでは?」
「普通ならば、そうだ」
 言いながら成井は指差した。
「だが、それが導く」
「……これが」
 指された先にあるのは、成井の経歴が書かれた紙だ。
「お前も俺も、はめられたのだ」
「そんな」
 馬鹿な、とは言えない。
 成井の言葉を信じるまでは行かなくとも、言い返せない自分がいる。
 サイモン教授……なにが、どうなって。
 惑う勇也に催促が掛かる。
「時間がない。俺は無駄に闘わない主義だ。さっさと用件を済ませよう」
「無駄?」
 つぶやいた那由が成井を睨む。
「敵ですよ。無駄なのですか? 見たところ、あなたさまも立派な悪魔憑きのご様子ですが」
「わかってないな」
 鼻で笑い、成井の威圧が高まる。
「俺は慎重だ。お得意様しか客としない。故にこの場所を知っているのも極わずかであり、魔人街の連中すらも気付かない結界を張っていた。なのに場所が割れた。ここで闘い、撃退したとしても追っ手は続くだろう。留まる選択は馬鹿のすることだ。なら答えは一つしかない。次へ移るだ。守るべき家族もいるのでな」
 家族ね。
 よどみなく流れた言葉を聞いていくうちに、惑うこと自体が馬鹿らしくなっていた。巻き込んでしまった点は申し訳ないと思うも、ここまで来てしまえばもう行くしかない。
 開き直りだ。
 だからか最後の部分が心に引っかかる。それは那由も同じだった。
「守る? あの方は」
 人間じゃない。向こうの住人だろ。
 思い返せば解せない。人気は感じられなかったのだ。
 やりたくはないが、交渉となれば。
 現世へ逃げるなら狩りの対象だ。
 つけいる隙、だが成井は揺るがなかった。
「家族だ」
「そう、ですか」
 那由の顔が曇ると同時に、言い切った成井は軽く舌打ちして付け加えた。
「わかったならば用件を言うか、それを渡せ」
 非をものともしない。……それだけ大事ってことか。
 真っ向勝負の相手に脅しなど無意味だ。
 下手したら得られるものすら、か。
 弾きだした答えに従い、勇也は黙ったまま成井へ紙を渡した。すると紙は淡く光りはじめ、成井の両眼も紫の光りを放ち出す。
「そういうことか、糞爺」
 吐き捨てた成井の前で、紙は青白い炎を上げて燃え散る。
 メッセージ?
 単なる経歴が書かれた紙ではない。結界に接触したときも同様に光りを放った。位置を敵に知らせる役目も課せられたのなら、ほかの情報を含まれていたとしても不思議ではなかった。
「教授はなんと?」
 光りが消えた目を軽くほぐしながら成井は答えた。
「記憶を楽しめ、だ」
「それだけ?」
「前回分の支払い云々もあったが、充分だ。すでにお前の情報は握っている。仕事に移ろう」
「ってことはいくらで? 持ち合わせがちょっと」
 ここぞ、という時になっても懐の軽さが二の足を踏ませる。
「大丈夫ですよ。そのために私がいるのです」
 そうなんですか。
 傍らで胸を張る那由に対し、ありがたさと情けなさが入り交じり、つい苦笑してしまう。
「庶民感覚が抜けてないようだな、柊勇也」
「まぁ新人ですし、いろいろ苦労してますから」
「だろうな。しかし安心しろ。糞爺がスポンサーになっている。今回はそれで手を打つ」
「では私の出番は」
「ない」
「……わかりました」
 肩を落とす那由に悪いと思いながらも頬が緩む。
「ともあれ、スポンサーの件はありがたいですね」
「どうかな。知らずと舞台へ上げられている、可能性はあるぞ」
 わかっていますよ。
 それすら織り込み済みだ。
「例え踊らされていようとも。俺は知りたい。知らねばならない。でないと彼らの死が無駄になってしまう」
「二六九名の命か。律儀だな」
「いけませんか」
「別に構わん。だが条件は揃った。はじめるぞ」
 条件? 発動がらみか。
 なにがしかの力を持っているのは承知している。それが目当てでもあったが、不安は拭えない。
 説明は、ないか。暇なさそうだし。
 不安よりもあきらめを選択する勇也に対し、那由が割り込む。 
「その前に。一つよろしいですか」
 成井は答えず、顎でのみ指して続きを促す。
「なぜあなたは勇也の依頼を受けるのです? まだ詳しく話してもいないのに。サイモン教授からなにか指示があったのではないですか?」
「慎重だな」
「これぐらい普通です」
「……いいだろう」
 苦笑を浮かべた成井の両眼が、淡い紫色を帯びはじめる。
「当てつけもある。糞爺からふんだくる、気でもいる。しかしそれ以上に俺が、狂おしいほど未知に魅了されているからだ」
「だからあなたは」
 口にするも、那由は小さく首を振って押し黙った。
 納得したとも取れるし、あきらめたとも取れる反応だ。
 憑いた者の影響か。魅入られている……理由としては妥当さ。
 不安にケリをつけ、勇也は切り出した。
「時間がないんでしたよね」
「ないな」
「だったら、結論から教えてください。SSA444便が不慮の事故であるのか、故意に起こされた」
「事件だ」
 あとを継ぐように囁かれた言葉に、目が丸くなる。
 ……どストライク。
 身体が一瞬震える。
 待望の答えに、鼓動が早くなっていく。
 冷静になれ、冷静に。
 心で唱えながら固唾を呑み、言葉を絞り出す。
「新たな情報を掴んでいるのですか」
「掴まされたと言ったほうがいいな」
 それって。
 白髪の老紳士が赤い唇を歪める。楽しげな顔が脳裏を過ぎった。
 繋がったらどうなる? ……まさか。
 走り出す推測が口を突いた。
「あなたが追われる理由と関わっている?」
「いい読みだ、柊勇也」
 肯定だ。
 推測だったものが確固たる事実に変わる。
 じゃぁ事件は。
 はやる心が答えを求める最中、もう一つの真実が暴かれはじめる。
「あの便にはある男女が乗っていた。夫婦でも恋人でもない。席も離れていた赤の他人同士の男女。しかし彼は、彼女はなにかを求め、実行した」
「それが、そいつらが墜落の」
「引き金になったかもしれない」
 違うだろ。
 眉をひそめ、声を荒げる。
「かもって。奴らでしょう、斬光なんでしょう?」
「暁教団。斬光の母体となった教団に属していた、人間らしい」
「人間が……らしいなら、確定情報は?」
「まだそろっていないが、まずはお前の記憶を見てからだ」
 記憶を。
『楽しめ』
 サイモンの声で脳裏を過ぎったとき、成井の両眼が紫色に瞬く。
 来るのか。
 淡く漂う威を感じ、視界が一気に変わる。
 再現される映像。
 見ているものすべてが記憶の一部にすり替わる。
 あの記憶だ。
 傾いてもなお飛び続ける機体。
 散乱する意識を失った生徒の姿。
 そのなかで、長い黒髪の女が立ち上がる。
 あれは。
 誰だ。
 思わず席を立ち通路へ出ようとするも、何かが腕を掴んだ。
『どこへいく』
 振り向く前に、男の声は続いた。
『お前じゃない。俺が行く』
 なんだ。
 意味わからぬまま強引に引っ張られ、身体が席へ沈む。しかも勢いを殺せず、窓枠に後頭部を打ちつけてしまう。
 くっそ。
 尋常ではない痛みに思わず目を閉じる。
 それでも状況を把握しようと薄目を開けたとき、ぼやけた視界に去っていく黒い影が映る。
 誰だ。
 なにもかも黒い。
 黒すぎて人間であるのかすらわからない。
 ただ歩いているのはわかる。通路を歩き、あの女に近づこうとしているのは理解できた。
 あれは、あれは。
 黒髪の後ろ姿が脳裏を過ぎる。
 俺はなにも、なにも。
「できないのか」
 口にして目を見開いた直後、視界がぶれはじめる。
「もうか」
 成井の声だと意識するなか、急速に幻影がかき消えた。
 あと少しなのに。
 歯ぎしりしたくなるのを押さえ、成井を睨む。
「奴らですか」
「突破した。ここがばれるのも時間の問題。残念だったな、柊勇也」
 せせら笑うも、成井は唐突に眉をひそめた。
 成井の視線を追うと、すでに背を見せた那由が歩き出していた。
「お嬢さん、なにをする気だ」
 音もなく立ち止まるが那由は振り向かない。
「私が時間を稼ぎます。その間に仕事を済ませてください」
「闘うと」
「無論です。私は滅殺の者ですから」
「滅殺か。だが俺はお嬢さんのことも知っている。前と同じ結末では困る」
 前?
 思わせぶりな言葉が那由を振り向かせる。
 唇を真一文字に結び、強力な威を含んだ瞳が成井を射抜く。
「私はもう、昔の私ではありません」
「……そうかもしれんが、やめておくのだな」
「なぜです」
「柊勇也が困る」
「困る?」
「真実へたどり着く前に、終わってしまうぞ」
 片眉をつり上げ、さも楽しげに成井の口元が歪んだそのとき。
 背筋に寒気が走り、那由と同時に振り返る。
 来た。
 ガラス戸の向こうに虚無僧姿の男が見え、一瞬にして戸が開け放たれた。
 結界を簡単に。やってくれる。
 力量を悟り、相応の体勢を整えるべく力を解放する。
 一気に気温が下がるなか、敷居を跨いだ男の足が止まった。
「この力は……柊勇也か」
 浅黒い肌に焦点を失ったかのように彷徨う視線。声もおかしい。あきらかに幾人か混じった響きだ。
 こいつ、木偶か。
 操っている者がどこかに、そう判断した直後。
「お前が柊?」
 若い男の声だけになり、虚無僧姿の木偶が首を傾げた。
 なんだ?
 いぶかしむ勇也に、成井が囁く。
「どうやらここまでだ」
「撤退ですか」
「予定通りだ。あとは任せたが一つ教えてやる」
 背後の気配がかき消えていく。
 早いな。
 すでに逃走の手は打っていたのだろう。
 木偶を睨んだまま、成井の声を拾うべく耳をすませると、
「奴はお前を知っている」
 俺を?
「なにを知って」
 言いかけるも、勇也は言葉を飲んだ。
 木偶が口にしたのだ。
 ある単語を。
「なんと言った?」
 聞き返す勇也に、木偶は再び首を傾げた。
「橘だ。お前は橘勇也」
 断定だった。
 前とは違う。
 確実にこいつは、俺を知っている。
 意識した途端、いとも簡単にあの願望が台頭してくる。
 こいつは、どこまで知っている?
 木偶がではない。
 裏で操っている者。
 しかも当事者に関わる、教団の者だ。
 願望を読まれた可能性あれど試す価値はある。
「お前はどこまで知っている?」
「どこまで……そうか。わからないんだな、橘」
 わからない?
 なにをだ。
「うまい具合に忘れたもんだな。だからそうしていられるんだ」
「なにを言っている?」
「生存者はお前だっ……」
 そこまでだった。
 もう二度と続きは聞けない。
 木偶は中心線から一気に左右へ分断され、木片となって消失していく。
 変わりに黒い手刀を振り下ろした那由の姿が現れる。
 思わず睨む勇也に、那由はうつむいたまま叫ぶ。
「なにをしていらっしゃる」
 感情と共に溢れる威に気圧されるも、勇也は堪えた。
「そっちこそ。なぜ」
「なぜ? 我々は滅殺の者ですよ」
 ゆっくり顔を上げた那由は目を細め、
「殺られる前に殺る、殺れる時に殺る。これは鉄則」
「わかってる。でも」
「でもはありません。彼らとの交渉は無駄なのです」
「今のも言い切れるのか」
「問う時点で勇也、あなたは敵の術中に填っていたと言えるでしょう」
 揺らぎは見えなかった。
 あきらかに彼女は正しい位置にいる。
 毅然とした態度も間違えていないからこそだ。
 分が悪いよな。
 後ろめたさが視線をそらせるも、状況は動いていた。
 視界に入る骨董品や、掛け軸などが歪みはじめる。
 時間が来たな。
「魔人街の結界。戻ったようです」
 追い出されるわけだ。
 すでに住人であった成井はいない。
 成井が存在しない以上、彼の力が消失したのも同意。しかも魔人街へ導いた経歴書も消え、強引に結界を突破してきた招かざる者すら居たのだ。
 瞬く間に外へ排除されるのは当然の結果だった。
 歪み溶けた景色も瓦葺きの民家に変わり、入り込む前へ戻される。
 じゃ、あいつも。
 過ぎったと同時に背後から声が掛かった。
「ご無事ですか、姫」
 ネクタイをゆるめ、白いワイシャツに黒の上着を肩にかけた八汰が近づく。
「愚問です」
「さすが姫で」
「そちらはみっともないお姿ですね」
「少々、遊び過ぎまして」
 口元を歪める八汰の後方では、屋根が溶け、半分に潰れた車が黒い煙を吐き出していた。それ以外に被害めいたものはない以上、局所的に結界を張り、思う存分に暴れ回ったと見て良いだろう。
「その結果が、このざまですか」
「誠に申し訳ない」
「お陰でこちらは邪魔が入り、散々です」
「重ね重ね、申し訳ない」
 姿勢を正して深々会釈する八汰に、ため息を挟んで那由は微笑んだ。
「では八汰さま。元凶ぐらいは、どうにかしていただけたのでしょうか?」
「敵は滅しました。しかしこちらのは木偶でして」
 片眉がぴくりと動き、那由は目を伏せた。
「同じです。賊は二人でしたね」
「ええ。最初から木偶だけだったのか、今のところわかりませんが、爵位持ちと考えていいでしょう」
 爵位持ちね。
 勇也に反論はなかった。
 それだけ力を感じ、なおかつ二体も操っていたとなれば確定と言える。
 でも奴は一人じゃない。
 疑念を巡らせるなか、那由が問い返す。
「裏切り者がいると。しかし一代限りの者も疑えば、際限なく広がりますよ」
「では伯爵以上としましょうか」
「見積もりは正確ですか?」
「間違いなく。敵はそのレベル、ただし裏切り者かどうかは怪しい」
「根拠は?」
「教団絡み。光りの残党どもという線もあります」
「残党……たしかに」
 今まで伏せていた目が、勇也を射抜く。
 同意を求めた目ではない。
 あきらかに探っている目だ。
 俺に振るなよ。
 なにも言えず、耐えかねて顔を背けた勇也は、晴れ渡った空を汚していく黒い煙を見やりながら小さなため息を吐いた。
 また振り出し。
 情報は得られた。
 前進もした。
 しかし、はっきりしない点が増えたのは事実であり、次の手が今すぐには思い浮かばない。
 整理しないとな。
 疑うべきモノが多すぎる。
 肩の力を抜くように深く深呼吸し、漠然と次へ思い馳せる最中。
 流れるようなバイオリンの旋律が聞こえてくる。
 那由からだ。
 小首を傾げつつケータイを取り出した彼女は、支店の長として事務的な会話を二言三言続け、
「わかりました。では戻るまでに準備を」
 戻る?
 眉をひそめる勇也に、那由は淡々と名を告げた。
「鈴白阿津香、ご友人ですね?」
「そう、ですけど」
「さきほど事務所へ来られたのですが、倒れられたとのこと」
「それが戻る理由ですか」
「いえ」
 微かな笑みを浮かべ、
「非常におもしろいことになりました。彼女は闇です」
「闇?」
「根本的な性質がです」
「それがおもしろいと?」
 無言で首を振り、目を細めた。
「勇也、あなたは運がいい」
 運?
「どういうことです」
 繋がらない内容に苛立ちを覚えはじめる、そんな勇也の目を見張らせる決定的な言葉を、那由は口にした。
「斬光。彼女があなたを斬光教団へ導いてくれるわ」
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