序章 焔断つ
空を飛んでいる。
橘勇也にとって初の海外旅行は、中学校の修学旅行でとなった。
行き先は東南アジアのラオス人民民主共和国。
第一次東南アジア大戦の激戦地であったラオスは、十年経った二〇二〇年現在驚異的な経済発達を遂げ、近代化と民族文化が融合し、戦争の悲劇を伝える平和の聖地として崇められ、新たな観光のメッカとなっていた。
そのブームに乗ったお陰での修学旅行。
集合時間は早朝、学校に集まってバスで空港へ、午前八時頃にはもう空の人だ。
はぇーもんだなぁ。
離陸してから一時間半が経ち、そろそろ緊張も解けてきた。
未だ座席ベルトを締めていたが、周りはとっくに自由の身で、至る所で会話の華が咲いていた。
勇也は軽いため息を吐いてベルトを外し、窓の外を眺めた。
眼下には白い雲海が広がり、視界の半分は青々とした空が占めている。
景色はいいんだけどな。
気分は晴れない。
なにせ出だしが最低だった。
空港に着いたときはまだマシだったが、座席に着いてからは緊張の連続で、膝はけたたましく笑っていた。
だからか、同じ班で数十回の海外旅行経験を持つ清水海斗に、離陸前に何度も『怖いか? 怖いか、な?』と聞かれ、最初は無視していたが次第に腹が立ち、最後は睨みをきかせ『怖ぇーよ、悪いか!』と怒鳴り返したが、震えた声は失笑しか買わなかった。
クソが。
若干声が大きかったため、二列前に座る女子たちが座席越しに覗いてくる。視線が合うと楽しそうに笑い、すぐに顔を引っ込めた。たぶん、彼女らの隣りに座っていた瀬能真生も笑っていたに違いない。
怖いもんは怖いんだよ。
気になる異性に格好悪いところを見せ、バカにされたとなれば明るくなれるわけがない。
このまま、最低で終わるのかな。
すでに修学旅行への淡い期待などは消えていた。
早く終われ、早く戻ってこい日常。
そればかりを考えていたとき。
「るっせぇ! 静かにしろ!」
怒声だ。
前方の席から聞こえた怒声は低かった。もしかしたら暴力系の人物? そんな認識が一斉に行き渡ったのか皆黙り、視線だけが彷徨う。
「あぁやだやだ」
清水が席に着き、小さく愚痴ったそばを二人の教諭が足早に駆けていく。近くのフライトアテンダントのお姉さん方も、顔を見合わせて前の様子を伺う。誰もが前の席で展開されるであろうやり取りに注目していた、午前九時四五分頃。
勇也は、視界の隅に入ったあり得ない色に気を取られた。
「なんだ?」
つぶやきながら再度窓へ近づいた途端、勇也の呼吸が止まる。
うそだ。
否定したい。強く否定、拒否したい。なのに声は出ず、目だけがしきりに動いた。
視界に入るどれもが、異様だ。
あり得ない。
ついさっきまで見ていた白い雲海と青々しい空など、どこにもない。
雲一つない、紫色の空。
眼下に広がる深緑の大地。
あきらかにおかしい。
「おぉい見ろ、外が!」
「なんなのこれ」
「うわ紫?」
「あれ、まだ海じゃ?」
あちらこちらで声が上がっていく。
幻覚ではなく、皆が見ている。
現実に起こっているのだと、全員が認識した直後だ。
激しい爆音と白熱光のような閃光が窓いっぱいに広がり、勇也の視界を奪う。同時に身体が軽く浮き、強烈な打撃を頭部に食らった、時点で勇也の意識は消えた。
◇◇◇
木の弾ける音が聞こえ、焦げた匂いが鼻腔を刺激する。
焼けているんだ。
認識した途端、一気に覚醒し勇也は半身を起こした。
「な、な、なん」
声にならない。
うまく口が回らない。
それだけ、視界を覆い尽くす炎の群れが圧倒的だった。
飲み込まれる。焼かれる。死ぬ。
瞬く間に行き着いた答えに、勇也は目を見開く。
「死、ぬ」
声に出すことで現状を認識したとき、今置かれている状況がなんであるのか、走馬燈のように記憶が過ぎっていく。
俺は、俺は……俺が乗っていたのは。
空を飛ぶ飛行機だ。
ボーイング787シリーズの新型、三百の座席に搭乗者数は二七〇人あまり。
そうだ、ラオスのSSA444便だ。四が三つ列んで縁起わりぃだろう? って清水が言ってた。……清水?
あいつはどこ行った。
見渡しても、炎ばかりで人らしき姿は見えない。
「そりゃ当たり前だ……俺たち、落ちたんだ」
墜落した事実を目の当たりにして、勇也は考えるのをやめた。
吠えて、泣き叫びたい。
狂い、なにもかも忘れたい。
そう思っても、勇也は冷静だった。
に、逃げないと。
動揺はしている。
事実も認識した。
しかしあまりの出来事に実感が湧かず、今目の前に迫る危機だけが勇也にとって最大のリアルであり、炎から逃げることが生きながらえることに繋がっていくと、脳が弾きだしたのだ。
震える足で強引に立ち上がり、再度あたりを見回す。
身の丈ほどの炎が三六〇度、すべて覆っている。
ダメじゃねぇか。
あきらめが過ぎるも、喉の渇きと肌をあぶる熱さが勇也を突き動かす。
「まだ、まだなにか」
見落としている。
探せ、探せ生き残れる道を。
くまなく見る。
すると、今まで見落としていたものがはっきりしてくる。
手だ。
足だ。
顔も見える。
服だって、よく見る藍色のブレザー。
だがすべて一部分しかない。
「これ、が」
心音が激しくなり、血流の音すら聞こえてくる。
吸っても吸っても呼吸をしている感覚が無くなっていく。
改めて襲ってくる現実、恐怖、狂気。
今飲まれてはいけない。
冷静な部分が囁くも、若干十四歳の限界はとうに過ぎていた。
「い、いぃいやぁだぁぁ!」
あらん限りの声を上げ、頭を抱えたそのとき。
音もなく、炎の壁が割れた。
思わず手をかざすも、指の隙間から見えた光景に勇也は釘付けとなる。
女だ。女がいる。
周りの炎など気にもせず、白銀の髪をなびかせた白いドレス姿の女が、ゆっくりと勇也のほうへ近づいてくる。
しかも炎は、まるで女から逃げるように避け消えていく。
幕開けの如く左右に割ったのも、この女だろう。
こいつは一体?
新たな異常が狂いたくなる記憶を隅へ追いやり、脳が活性化をはじめる。止まっていた回路が動き出し、あらゆる情報が流れ込んできてようやく勇也は気付いた。
冷たい風が吹きはじめていることを。
目の前から、女のほうから、冷気は流れてくる。
あたりはまだ燃えさかり、熱気があるというのにだ。
なんなんだ、これは。なんなんだ、あんたは。
わけがわからない。
しかしチャンスでもあった。
あきらかに次への扉。
この逆境から抜け出せるかもしれない、チャンス。
あまりにも絶望的な状況と異様な女。
心の天秤に掛けた瞬間、容易く一方へ傾いた。
「あ、あなたは、なに?」
うわずりながらも声をかけると、女は立ち止まって小首を傾げた。
さらにあたりを見回し、再び勇也を見つめる。
なんだ? 言葉が通じない? たしかに日本人じゃないようだけど。
容姿からして違う。顔立ちはどう見ても北欧系であり、瞳の色は薄い青色だ。
どうすれば。英語か? ヘルプミーか?
淡い期待を抱くのも無理はない。
いくら異様であろうとも、眼前の相手はとびっきりの女性なのだ。
助かる望み、状況打破、ついでに色気が勇也の脳をフル回転させ、拙い英語を口走ろうとした矢先。
「おもし、ろい」
「へ?」
間の抜けた声を上げる勇也に、女性は微かな笑みを浮かべた。
今の、日本語だよな。
聞き取った声を反芻し、意味合いを意識していくなか、再度彼女の声が聞こえた。
「汝が……どこまで行くのか」
どこまで?
ハッキリと聞こえた。
確実に意思疎通ができる。いい兆しと思えた。
でもなんだ、この寒気は。
冷気から来るものではない。想像を膨らまして来るような、たとえば夏の怪談、たとえば高いところから見る足元……。
俺、怖いのか。
答えに行き着き、溜まった唾を飲み込む。
ふと手元を見ると、微妙な震えが見て取れる。
感じている。俺、怖いって。
目の前の者が、一体何であるか。
本能だけで認識したとき。
「我と……契約、だ」
契約って。
血の色と見紛う唇を見つめながら意味を探ろうとする、そこまでが人間『橘勇也』としての記憶だった。